変わりつつ受け継がれていく破格の宿
大分空港から車で1時間弱、鶴見岳、由布岳を仰ぎつつたどり着く山間の盆地、由布院には街の礎を築いてきた老舗旅館が二つと、後発だが美意識の高い旅館が一つある。「亀の井別荘」、「玉の湯」、そして「無量塔」である。亀の井別荘の開業は大正10年、2021年には100周年を迎えるそうだ。創業は、石川県から大分に流れてきた風流目利きの中谷巳次郎。大分の観光振興に寄与した油屋熊八に頼まれ、山の別荘として開いたとか。
現主人、中谷太郎は四代目。父の健太郎は、地域づくりへの情熱と実績が由布院盆地を超えて溢れ出し、日本中の地域に元気と誇りを与えてきた人物。亀の井別荘には風土や暮らしに潜んでいる生命力を呼び覚ますような、活力と誇らしさが横溢していた。デザイナーとして、細々と美への思いを研いでいた自分の小ささを、どかんと吹き飛ばされるような、雄々しさと、美をなすことへの腰の据え方を教えられる破格の宿であった。
2016年の大分地震を契機として、四代目の太郎氏は宿の改装に踏み切った。雄々しくも無骨であった客室は、考え抜かれた改装計画で洗練され、平面的な畳の空間は、昇降する掘り炬燵や足を下せる仕様の書院が設けられるなど、休息と仕事の両方を宿に持ち込む滞在客の志向の変化に相即するしつらいが、ぴしりと具体化されている。また、個室に設けられた風呂も、室内と屋外の双方を楽しめるように細心の注意が払われている。
客室の一室を、6席の寿司カウンターに改装する着眼にも頷ける。旅館の食は連泊の客にはやや過剰でもある。長逗留を考えるなら、寿司カウンターはありがたい。米松の色もこの宿に合う。今後はスパなども構想されているはずだが、ぜひこの宿らしい日本流の施術や空間を考え抜いてほしい。グローバルに呼応する価値はローカルにこそあり、それを知り尽くした由布院、亀の井別荘ならではの安らぎと愉楽を期待したい。
受け継ぐものは「庭」ではないか、と太郎氏は語ってくれた。地震を経験し、建築は移ろうものと思い知ったそうだが、庭は揺るがない。その昔は神社であったという敷地内の木々はどこか神々しい。二本並べて庭の随所に植えられた夫婦杉の樹齢は、いずれも120年を数えるそうだ。残念ながら枯れてしまった赤松の大木の後に再び赤松を植え直す計画だそうだが、それが威容を放つには、さらに100年以上の歳月が必要とか。
「談話室」の音響機器の威風、茶房「天井棧敷」(夜はBAR「山猫」)の黒光りするテーブルや椅子、「黒毛和牛」「朝とれ野菜」「豊の軍鶏」「すっぽん」などと大書された看板が目を引く食事処「湯の岳庵」の味わい。これらは文化遺産にしたいほどの財産だ。旅館は過去を未来へ受け継いでいく遺伝子の家業である。それぞれの世代が躊躇なく自身を発揮し、守るべき遺産を確認しつつ未来へと宿を育てていく様を心から応援したい。
2020.5.4