地獄と異国情緒

701年、僧行基によって「満明寺」が建立されたことで開かれた。同時期に建てられた神社は「温泉(うんぜん)神社」。地面から噴気が吹き上がるこの地は、観光ではなく霊場として見出された。雲仙の文字は1934年に日本初の国立公園に指定された時に当てられたものだ。それまでは温泉と書いて「うんぜん」と読んだ。名勝地として知られるようになったのは江戸時代で、吉田松陰などが訪れ、シーボルトがその著書で世界に紹介している。

火山帯が生きていることを如実に感じる。マグマだまりで熱せられたガスが熱水や硫化水素の混じった噴気となり、轟音とともに湯煙を上げる。「地獄」と呼ばれる所以である。別府をはじめ日本の各地に地獄はあるが、雲仙地獄は風景として強く印象に残る。噴気孔の周りの石には結晶した硫黄が付着し、表面を白く黄色く染めている。キリシタンの拷問や処刑が行われた地でもあり、荒涼たる光景に気圧されつつ湯煙に包まれる。

「大叫喚地獄」と恐ろしげな名前のついた地獄は、シューッという鋭い音とともに、大量の水蒸気を吹き上げている。水蒸気が地中の空洞から吹き出す際の音響からこの名がついた。「雀地獄」は、雀が囀るように、ぶつぶつと、湯と泡が小規模多彩に吹き出している場所で、なるほどその名がふさわしい印象だと感心した。現在は、遊歩道ができているので安全だが、一歩柵の外に出ると、柔らかい地面もあり危険である。

長崎・上海間の航路が開けた明治・大正期には上海租界との往来が盛んとなり、欧米人の保養地として賑いを見せた。日本で最初にアイスクリームが観光客に供された場所と言われており、独特の異国情緒に満ちていた。1934年に国立公園に指定されるにあたって、国策としてこの地に観光ホテルの建設が計画され、その任を担ったのが、大阪で海運業や堂島ビルヂングの経営で知られた実業家であり、長崎にゆかりのある橋本喜造であった。

橋本喜造の創業した雲仙観光ホテルは、幾度かの改修を経ながらも現在も健在で、特にその内装は、往時のはなやぎを今日に伝えている。赤い切妻屋根の建築はスイスのシャレー様式を採用したと言われているが、現在は、ウイリアム・モリスの壁紙や英国風の家具、そしてアール・デコの様式を取り入れた浴場など、欧州の様式を多彩かつ慎重に取り入れた心地の良いクラシシズムに満たされている。欧風家具が自然に収まっている風情がいい。

特にダイニングルームは素晴らしい。テーブルウエアの配列にも、世界からの賓客を自信を持ってもてなした誇りと風格を感じる。ゆったり心なごむ優雅さに満ちた、日本で成熟した洋風か。白いテーブルクロスやカトラリーの輝きが映える明るい光に溢れた200畳の空間である。パンデミックの影響で宿泊が制限されており、残念ながら泊まることはできなかったが、いつかこのダイニングで至福の時を過ごしてみたいと思った。

創業者が船会社も経営していたからであろうか、このホテルはどこか客船のようであり、バーや、ビリヤード場、映画の視聴室、そしてライブラリーなどが、通路に沿って用意されている。どの空間も細部まで瀟洒な感覚で作り込まれている。噴気と湯煙の雲仙地獄に、このようなホテルが存在すること自体、お伽噺のようであるが、このホテルを生み出し、受け継いできた創業家の人々の思いの深さと知見の豊かさを思わざるを得ない。

浴場は、アール・デコ様式で天井やタイルの紋様が独特である。地獄の湯にしてはハイカラだが、こういう異国情緒の取り入れ方も悪くないと、ふと「観光」の魅力の一端に触れた気分になった。日本固有の文化を資源として観光を組み立てなおそうと意図している自分にとっては興味深い対象物である。確かに長崎は、外国との接点の場所であり、洋の東西の人々が文化の混淆を楽しむ場所であった。これは深く心に刻んでおきたい。

2022.4.4

アクセス

長崎県雲仙市小浜町雲仙