無と対話する装置
鈴木大拙の著作を紐解くと、「無」とか「生」とか「わたし」について、わからなくなるのであるが、しばらく咀嚼するうち、そうした書物を読む前から、実はわかっていたことについて語られていることが、徐々に腑に落ちてくるのだ。この建築は、そんな思想を生きた偉人を想起するために設計されたものである。施設は展示空間、学習空間、そして思索空間に分かれているが、ここでは撮影可能な外観からアプローチしてみた。
池の中に、白い立方体の建築物が浮かんでいる。屋根は薄くフラットで、庇が大きくせり出している。池の表面は、鏡面のように静まってはおらず、時折、音を立てて水面の一角が盛り上がり、波紋が生まれ、それがゆっくりと池全体に広がっていく。あたかも鹿威しのように間欠的に生み出される水面の波立ちが、むしろ静寂のリズムを生み出しているかのようである。建築や周囲に生えた木々の影が、水面の上に揺れ続けている。
白い建築は、立方体のようだがどこか平面的であり、正方形のような印象を与え、奥行きを感じない。中に思索のための空間を蔵しているにもかかわらず、である。しかし、単調であるかと言えばそうではない。館内をうろついて、いろいろな角度からこの空間を眺めていると、実に多様な表情を持っていることがわかってくる。平明であり、単純であり、無作為であるが、捉えようとすればそれ相応の表情で応えてくれるのである。
日本人は、明治以降、西洋から多くの知識を取り入れようと勤しんできた。技術も哲学も、数学も、科学も、ひととき西洋に傾いた、合理性を背景とした思考法が、世界や社会のあらゆる問いや課題に答えてくれるかのように見えた。しかし、そういう中にあって鈴木大拙は、ひとり西洋社会に向かって、東洋の考え方、生や宇宙の捉え方を揺るぎなく説き続けたのである。そしてその思想は西洋社会に大きな共感と支持を生み出した。
僕自身は、デザインの実践を通してものを考えてきたが、鈴木大拙の書物に触れることで、感覚的にそうだと思っていたことを、あらためて諭され直すような、不思議な気分になる。今日、人工知能という、分析的思考が生み出した知の集大成のような技術によって、世界が変わろうとしている時、今一度、東洋の思考について反芻してみるのはどうだろう。そう考えるのは、あながち東洋人ばかりではないはずである。
この建築の設計者は、谷口吉生である。無や禅を体現する建築の設計は、実に難しそうであるが、それはいとも自然に、はじめから決まっていたかのように立っている。2011年に竣工した建築である。ちょうど晩秋の落ち葉の舞い落ちる時期だったが、池や床も、日々励行されている掃除の成果で、まるで昨日できたかのように清々しい佇まいである。その佇まいに促されるように、瞬く間に写真や映像を撮り終えていた。
2022.12.5