ブナの原生林をマタギと行く
青森と秋田の県境に広がる人為の介入のきわめて少ない原生状態のブナ林、白神山地が、ユネスコの世界自然遺産として登録されたのは1993年。保護のため立ち入りが制限され、この地を自在に動いて生きてきたマタギはやや困惑した。マタギとは山に寄り添い、熊猟や炭焼き、山菜やキノコの採集で暮らす人々のことだ。農業も営むが、山の環境や動植物の生態に精通し、自然の豊穣に敬意を払いつつ山を鎮め、この地の文化を紡いできた人々である。
今でも狩猟は許された領域と期間で行う。熊は自然の贈与という意識があり、乱獲はしない。春の雪解けの頃に冬眠明けの熊を狙う。雪を背景にその姿が見つけやすいのと、雪に覆われた山は藪も育っていないので動きやすいからである。獲った熊は一族が集まり、息災に暮らすことを願って大鍋で熊鍋にして食べる。胆嚢を乾燥させたものは「熊の胆(くまのい)」と呼ばれ、万病に効く薬として、重量で金と同等の価格で取引されたとか。
現在、マタギは原生林の保護管理に協力し、先祖からの暮らしと知恵を守る営みを続けている。2000年に「白神マタギ舎」が発足、白神山地を探訪するツアーを企画するなど、当地の案内役を務めている。マタギの家系を継ぐ工藤光治氏を代表に、甥の工藤茂樹氏、他県の出身ながらマタギ文化に魅せられ、文化継承者となった小池幸雄・宏美夫妻らによって運営されている。今回は工藤茂樹氏の案内で保護地区の周辺を歩いた。
季節は5月下旬、新緑の緑はやわらかく、色合いの多様な季節である。まさに天然の混成林で、ブナを主にミズナラ、サワグルミなどの群落を含む多種多様な植物相が見られる。落葉広葉樹による腐葉土と浅く根を張るブナの根は保水力に富み、豪雨も雪解け水も腐葉土と根にしっかり保水されたのち、ゆっくり川へと送り出されていく。ここではブナ林の中に設けられた「マタギ小屋」を拠点に、沢のぼりや原生林の探索を行った。
保護の中枢域もその周辺も、マタギが案内する道は、道と判別のつかない「けもの道」である。動物は歩きやすい場所を心得ているので、熊やカモシカなどの通った道を歩くと、合理的に山歩きができる。ロープを使う登山などとは異なり、あくまで自然に歩ける道を行く。沢歩きは雪解けの渓流を上流へと遡るもので、地下足袋を履き、ごろた石の川床や川岸を縦横に歩く。足をとられそうな流れに抗いつつ原生林の感触を味わうのだ。
朽ちた倒木に、苔やシダ、キノコや地衣類が張り付いている風情に、森の生命の神秘を感じる。実生のブナの双葉から出る本葉は柔らかく、青虫も熊も好んでこれを食べる。5月は植物の目覚めの季節で、原生林は新しい芽吹きや開花で溢れている。貿易風がヒマラヤ山脈に当たって方向を変え、日本列島に届いて雨や雪となる。豊富な水をたたえる湿潤な日本列島の気候と、そこに育まれる生命を目の当たりにする想いである。
マタギ小屋は活動の拠点となる極小の簡素な小屋で、マタギも客もここを中心にテントで寝泊まりをする。朝起きるとはじめに火を焚く。山歩きから帰ってもまずは火を起こす。長く効率よく燃やすために薪は川の字にくべる。この火にゴミは決して投じない。ごちそうは炊き立てのご飯と山菜。ウドやアザミ、竹の子やキノコ、そして山の動物の肉。熊肉もある。沢で抜いたばかりのわさびを擦り、山の水で炊いた香ばしいご飯に載せる。
2021.7.5