普遍を衝く美の震源

芹沢銈介の作品をはじめて見たのは高校の頃、朝のニュースが、パリのグラン・パレで開催された芹沢銈介展が大成功し、パウル・クレーにも匹敵する仕事だと評価されたことを伝えていた。そこには「風」という漢字が、書とも紋章とも異なるタッチで描かれたポスターが映し出されており、下に配されたSerizawaというローマ字が輝いて見えた。ああ、確かにこれは世界に通用するかも知れないと感じたことを思い出す。

芹沢銈介の名前に再会したのは、日本の地域の仕事を始めた頃、幾人かの傑物を介してであった。鳥取の青谷で和紙を産していた塩義郎、富山の八尾で和紙工房「桂樹舎」を営んでいた吉田桂介、それぞれの地域文化を牽引する大老二人が若い頃、共に薫陶を受けたのが芹沢銈介だったという。二人とも小学校の校舎を移築・再利用した和紙資料館を営んでおり、同様の展示什器に、和紙やら、古今東西の美術・工芸品を並べていた。

民藝といえばまず頭に浮かぶのは柳宗悦である。美術家の作ではなく、無名ながら暮らしの中で育まれてきた、いわば詠み人知らずの生活用具の中にこそ美があると説き、陶芸や和紙をはじめとする伝統工芸の担い手たちを鼓舞した。芹沢銈介もそんな柳の思想に共鳴した工芸家の一人だったが、芹沢の型染めは、まさに柳が提唱する民藝を体現するものであり、民藝運動に関わる誰もが、芹沢銈介の仕事に魅了されたのである。

型染めは、スケッチをもとに型紙を繊細なナイフで切り出し、それを用いて防染のりを施し、その上から染料を用いて染め上げていく造形で、主に布の上に展開される。ドローイングの生々しい線は、型に抜かれる過程で程よく昇華され、普遍的なかたちに到る。結果として芹沢は、そこに独自の造形ボキャブラリーを確立したのである。ひらがなも、漢字も、絵も、芹沢の手にかかると、全てが普遍的で魅力的な造形物へと一変するのだ。

冒頭で紹介した1976年のテレビニュースは、パリまでもが芹沢の魅力に感染したことを伝えるものであった。僕はデザイナーであるが、デザインを志して以来、芹沢銈介の作品は見ないようにしていた。紋章や武家の旗指物の意匠など、非常に完成度の高い伝統的グラフィックスが日本にはあり、芹沢の仕事もその一つである。したがってその魅力に自分までも感染すると、新しいかたちの創作を阻害すると、直感的に思っていたのである。

しかし、とある仕事で、芹沢銈介の魅力をデザインの立場から解説する役を依頼され、静岡市の芹沢銈介美術館を訪ねることになった。美術館に収められた作品と対峙し、その素晴らしさを改めて認識した次第であるが、同時に見た「芹沢銈介の家」が、この作家を感じ直すきっかけとなった。作家の息遣いを色濃く残す家に触れることで、まるで封印を解かれたように自然体で作品群に対峙でき、今では素直にその良さが心に染みる。

「芹沢銈介の家」は、かつて氏が宮城から東京の蒲田に移築した民家の板倉で、これを1987年に美術館脇に再度移築した。「農夫のように平凡で、農夫のように健康」と自ら語っていたという家は、それ自体が一つの簡潔な民藝である。芹沢銈介は極めて旺盛な工芸品の収集家であり、家の中には氏が収集した家具・木工・染織・陶磁・玩具など、魅力ある古今東西の工芸品があふれており、美術館に匹敵する輝きを放っている。

美術館は建築界の鬼才、白井晟一の設計である。1955年「原爆堂計画」で、未完のプロジェクトながら、日本の現代建築に筋の通った精神性を求める作風をもたらした建築家の、最晩年の作にあたる。中庭に池と噴水を配した建築「石水館」は、アーチ形の窓や開口に特徴がある。紫外線を嫌う展示物との関係で、内部から外部への眺望が望めない点は残念だが、迷路のような館内や石積みの外観が施設に一層の魅力を加えている。

美術館に隣接するのは、弥生時代の住居群の遺構「登呂遺跡」である。現在は、再現された竪穴式住居が並んでいる野外型の古代史博物館のような場所である。竪穴式住居は、弥生の前の縄文時代に既に考案されていたとされる住居で、いわば民藝の元祖と言えるかもしれない。水の侵入を防ぐ盛土や、脇に建てられている高床式倉庫など、稲作を背景とした定住時代の日本の民家の基礎をなす立派な住居であり、一見に値する。

2021.4.5

アクセス

静岡市立芹沢銈介美術館

〒6422-8033 静岡県静岡市駿河区登呂五丁目10-5