あたりいちめん、いのち
標茶町の釧路湿原の紹介は二度目になる。これには理由がある。釧路湿原の素晴らしさに感銘を受け、『低空飛行』の取材と、大学のゼミ生たちとの夏季合宿を兼ねてこの地を再訪していた2019年のことである。標茶町の佐藤町長が合宿所に現れ、当時進み始めていたシラルトロ湖畔にある宿泊施設のリニューアルの図面を見せられ、感想を聞かれた。実直なリノベーションだったが、お客は呼べないと感じたので率直な感想を述べた。
やがて、かつてこの施設に泊まった事のある建築家の隈研吾氏が改修を担当することになり、僕は客室のインテリアや家具などの造作物、そしてコミュニケーション系のグラフィックを受け持つこととなった。既存の施設の構造を残しつつの極めて限られた予算の仕事であるため、建築家にとってもデザイナーにとっても簡単な仕事ではなかった。ただ、やはり釧路湿原の魅力に引き込まれて、いつしか懸命にこのプロジェクトに向き合っていた。
今の時代の旅行者は、完全にオフであるというよりも、オンとオフが入り混じる、つまり休みながら働き、働きながら休む。PCと通信環境があればどこででも仕事ができるのだ。したがって大自然の懐に抱かれた拠点に逗留し、安らぎながらもアクティブに働ける室内構成を考えた。ソファやベッドの背後に、PCがゆったりと置けるテーブルと電源を設え、座り心地のいいスツールを配することで、快適なワークスペースができる。
木造棟の客室は、壁を取り払って大きな空間を設ける際に、構造となる柱を取り去ることができなかった。結果として、柱が林立する室内はまるで雑木林のようになった。しかしこの空間には、案外と不思議な落ち着きがある。ただ、事情を知らない宿泊客は、このインテリアに疑問を持つかもしれない。この空間を楽しんでもらうために、建築家の「柱の記憶と痕跡」という言葉を、小さな真鍮板に刻み、柱に取り付けることにした。
浴場はもともと立派な岩風呂が屋内に設けられていたが、ここにサウナと外気浴場、そして露天風呂が新設された。全体の施設名称は「ぽん・ぽんゆ」で、これはアイヌ語で「小さな温泉」を意味する。新設された露天風呂は決して大きくはないが、この地の特徴を盛り込むべく、湿原の葦の堆積がもたらす「やちぼうず」をかたどった、丸く盛り上がる背もたれを設えた。ここから浴場の名称は「やちぼうずの湯」となった。
親しみのある響きを持つ「ぽん・ぽんゆ」であるが、釧路湿原の素晴らしい自然に囲まれたジオ・パーク的な拠点であることを表現するために、地形や植生、動植物の分布や生態を緻密なグラフィックスで展開することとし、スタッフは手分けして作画に没頭した。「やちぼうずの湯」の脱衣場にはその図解を額装して掲示し、それぞれの客室にも、釧路湿原のめくるめく自然のわかりやすい図解がアートピースとして展開された。
ロビーや休憩所の壁面にも、植物の分布図や湿原に網の目のように広がる水系図を、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖などとの地脈を示しつつ大きなパネルとして掲示した。やはりこの施設のご馳走は、手付かずの自然が維持されている釧路湿原なのである。日本列島の魅力は、なんといっても多彩な自然と風土である。これが、普通の人々が安心して日本列島を探訪できる施設のあり方を模索していく仕事の始まりとなる事を期待している。
2025.1.6