版画家・池田良二の時間
池田良二は銅版によって、独自の表現世界を作り上げてきた版画家である。撮った写真を銅版に焼き付け、光学作用で生まれる像と手で描く点描や文字を、腐食によってひとつの図像へと統合する。陶磁器が火を潜ることで普遍や永遠を獲得するように、腐食と刷りという工程を経ることで見る人の心の中にイメージの化石のようなものを生み出す、そんな作風である。その版画家・池田良二が、半生をかけて育ててきた場所がある。
・Deposition of memories / 記憶の沈澱Link
・Note-two square, eyesight / 視野Link
・Ryoji IKEDA Art Works 1975-2016 The Musing the Breathing of ImmanenceLink
「落石(おちいし)岬」は根室半島の付け根にある小さな岬である。アイヌ語の「 オク・チシ(首の付け根のくぼみ)」が由来で、人頭の形をしている。岬の端は崖になっているが、縄文時代の住居跡や貝塚が見つかっており、古代人たちはここに相応の居心地を見つけたのだろう。この岬の中程に無線送信所の廃墟がぽつりとある。そして、この廃墟と岬の南端の灯台を結んで、不思議な木道が松林の中を一直線に延びている。
木道は異界につながる幻の道のようだ。湿地帯であるため、地面よりやや高く設えられた土台に、縦半分に割られた細丸太が釘で打ち付けられている。湿地には水芭蕉の群落があり、訪れた5月初旬に一斉に開花を迎えていた。アカエゾマツの林に広がる水芭蕉の群落を抜けて、奥へ奥へと延びる木道は、まるで天国を歩いているようである。この不思議な道を歩いて落石岬の灯台を往復するだけでも、この地を訪れる価値がある。
根室で生まれ育った池田良二は、独自の版画世界を東京で確立したのち、母親の死を契機に、故郷に拠点を設けることを思い立つ。その視線の先に、落石無線送信所の廃墟が現れた。1985年のことだ。明治41年(1908年)に逓信省が開業した落石無線電信局は、北米航路を航行する船にとって貴重な通信拠点であった。根室半島の形はアンテナのようだが、世界へ電波を発するまさに日本のアンテナだった。1966年、施設はその役割を終えていた。
1985年、38歳の池田良二は落石無線送信所跡を自身の活動拠点と見立て、この廃墟に手を入れ始める。天井に防水層を設けたり、開口部を塞いで、内部にホワイトキューブを設えたり……。ただ、それは改築や改装というより、建物の風化を受けとめ、それを自らの身体と同化・共振させることで、自身の作品と廃墟を融合させるような方法ではなかったかと思われる。構想は少しずつ、着実に時間をかけて成熟していったようだ。
失われていくもの、なくなっていくものに寄り添うのが池田良二の方法である。自ずと古物が池田の元に集まってくる。落石神社の社の古材と銅板瓦、玉砂利……。落石に設けられた瀟洒な夫妻の住居は、そんな素材でできていた。小さなギャラリーには無線送信所の周辺で拾った古瓶や、近くの半艘浜で集めた丸い石が静かに置かれている。高台にある家からは、交差する防波堤の上にならんだ落石湾の灯台の、おだやかな風景が望まれた。
同じ版画家の井出創太郎、高浜利也と始めた「落石計画」は、この無線送信所跡を拠点とするアートプロジェクトである。毎年8月の5日間、1年でわずか5日間しか開催されないプロジェクトである。日本の原風景を見るなら、この地をその一つに加えるといいかもしれない。落石無線送信所跡とその周辺の風物を、今もなお堆積しつつある歴史として、その腐食の様相を見つめ続ける、版画家・池田良二の視線を感じつつ。
2021.6.7