松原の風と光を受け止める器
沼津倶楽部は、駿河湾に面した沼津港に近い千本松原にある。背後には富士山が間近に見え、風が吹くと松籟を枕元に聞く。この地の風光を生かして明治末から大正初期に建造された数寄屋造りの茶亭を、修復・保護をかねてレストランとして活用しつつ、その脇に新たな集合別邸を増築し、宿泊施設として2008年より再興されたものが沼津倶楽部である。再興に名乗りを上げたのは実業家の北山雅史氏、別邸の建築家は渡辺明氏であった。
建築の意匠は、北山氏のかつてのパートナーであった北山ひとみ氏が1986年に渡辺明氏に設計を依頼して完成させた二期倶楽部 那須に酷似した構造で、静謐な水盤に向かって並ぶ客室は、那須の地の豊かさをたたえた二期倶楽部の佇まいを彷彿とさせる。二期倶楽部 那須が平家6室であったのに対し、沼津倶楽部は2階建て8室である。いずれも現代建築の中に数寄屋的造作と瀟洒なモダン家具が共鳴する、渡辺明氏の遺作である。
2022年に、北山雅史氏から、新たな継承プロジェクトチームに運営が委譲されている。水面に照り映える光はやはり静かで美しく、客は静かに水の揺らぎを見ながら落ち着いた時間を過ごすことができる。二期倶楽部 那須の佇まいに好感を抱いた向きは、同じ渡辺氏の建築で、このような空間が継続運営されていることに、そこはかとない安堵を覚えることであろう。松をわたる風と海辺の澄んだ光を受け止める器として心地いい場所である。
茶亭は2015年に国の有形文化財として登録されており、現在はモダン・チャイニーズを供するレストランとして運営されている。沼津港に近い立地を考えると、生きのいい魚介をふんだんに使った和のレストランが期待されるところだが、考えてみると海産物の焼き物等は、浜焼きのような客が自分で焼いて食べる野趣に勝るものはなく、連泊の客は徒歩数分の沼津港の地元の料理店に送り出す方が理にかなっているかもしれない。
集合別邸の壁は「版築」と言われる工法で、玉石の礎石の上に、型枠を築き、砂や土を投入し、棒で突き固め積層させたものである。富士川の砂と土を積層させた地層のような模様は、この地の風土を空間化する素材として最適であるように感じられた。雨に打たれ、陽光にさらされるほどに、その風合いを増していくのであろう。この空間に、気持のいい洋風家具がしつらえられていて、水盤に臨むロビー空間は実に爽快である。
大正二年(1913年)に完成された茶亭は、ミツワ石鹸の二代目、三輪善兵衛の別荘として建てられたもの。茶人として知られた主人の嗜好を反映した造作で、数寄屋大工の精緻な技巧が随所に見られる。躙口の他に貴人口が設けられた高貴な作りの茶室もある。一方で、昭和の間と呼ばれる空間は、誰がどのような用途で用いた空間であろうか、窓枠の装飾や網代天井の作り込みに、史的ドラマの気配を漂わせている。
敷地内の井戸から汲み上げられる水は、柿田川湧水群と同じ、富士山の伏流水を用いており、肌へのあたりがやさしいと言われている。スパはその水を利用した人工温泉で、岩盤浴や浴室のタイルには、特殊な遠赤外線を発し、長時間の温熱効果が得られるとされるオーストリア産の鉱石が使われている。浴室の背もたれが約50度に傾斜していて、加減のいい姿勢で入浴できる点は、ゴツゴツした岩風呂温泉にはない快適さであろう。
2024.1.1