風土・植物・建築の心地よい和声

内藤廣の建築が、牧野富太郎という抜きんでた植物学者の才能と実績をたたえている。静かだが心の奥深くに届くものを持った場所である。植物分類学の偉業と、それを後の世の人々と分かち合うために考え抜かれた空間。1999年に竣工した牧野富太郎記念館は、築後20年を超える歳月を経て、計画された植物の繁茂も順調に進み、建築と植物、そして高知の風土が気持よく溶け合っている。そんな光景を堪能できる施設である。

牧野富太郎の仕事にはレオナルド・ダ・ヴィンチを思わせるものがある。『牧野日本植物図鑑』というわが国の植物学の草分けとなる植物図鑑の編纂をなした碩学として知られるが、その能力の源泉は自然への強い興味・観察力・造形力、そして奔放な行動力にあると思われる。1862年、坂本龍馬脱藩の年に雑貨業と酒造業を営む家に生まれた。早くに父母を失い、祖母の手で育てられた。幼少期から故郷の野山を駆け巡り、植物に興味を示していたと言われる。

65歳で東京大学から理学博士の学位を授与されたが、生涯独学の人であった。記録では小学校を2年で自主退学となっている。10歳から郷里佐川の寺子屋に通い、11歳で伊藤徳裕(蘭林)の塾で漢学、名教館で西洋の諸学科を学んだほか、英語学校で英語を学びはじめている。小学校への入学はその後だが、既に学問の基礎を習得し終えていた牧野にとって、小学校は退屈だったのだろう。生涯で1500種を超える新種、変種の発見の論文は、全て英語で記されているそうだ。

少年期にすでに始まっている植物観察だが、そのスケッチは驚くべき精緻さで描かれている。その知識・語学力・画力は学校教育というより、自ら欲するところの導きによって自然に身に付いたものと考えられる。自然の摂理に対するあくなき興味が、描く力や知力を開花させていくというプロセス、また残されたスケッチやノートから感じられる印象が、ダ・ヴィンチのそれに近い。自然に導かれて開花した才能ということだろう。

牧野富太郎の絵は上手・達者の域ではなく、造化の妙のリズムやバランスを感覚的に体得した者のみが描くことのできる世界像のようなものだと思う。迷いのない描線は、これが真理であるという確信を見るものに伝えてくる。ノートに記された植物のかたちのみならず、植物が生み出す精気のようなものがノートという空間に満ちているように感じられ、「自分は植物の精かもしれない」と随筆に記したという氏の境地がうかがわれる。

牧野の名前を冠した植物園は1958年、氏の没した翌年に完成した。氏も同意したという五台山に建設された。四国霊場三十一番札所である竹林寺の敷地が一部寄贈されて生まれた園地であるため、園内には今でも遍路道が通る。1999年に園地を拡張して「牧野富太郎記念館」が開設された。建築設計は内藤廣。植物・環境・風土を主に考えられた建築と聞くが、中庭に植えられた植物とともに、去り難い居心地を生み出している。

長い庇が中庭を囲んでぐるりと配された建築であるが、屋根の有機的な曲線のムーブメントが植物や木漏れ日に呼応して心地よい印象を作っている。やわらかで優美な曲線を生み出すために、背骨となる鉄骨キールから内外周へと伸びる垂木の一本一本が全て異なる長さ・形状となり、その全てを綿密に設計した建築家の思いがひしひしと伝わってくる。敷地の傾斜や風圧、雨水の再利用を含む、環境負荷を考え抜いた建築でもある。

展示物に植物研究雑誌の原稿があり「植物採集行進曲」なるものへの言及を見つけた。観察ノートの裏表紙にもその楽譜が貼り付けてあった。楽曲の歌詞は「根掘り片手に胴乱下げて、今日は楽しい採集よ、採った千草の優しい花も、やがて知識の実を結ぶ」と読める。敬愛された氏の性格の一端が滲んでいる。園内を案内してくれた広報の小松加枝さんの明るい機関銃のような解説も含め、施設に牧野の精神が漂っているのを感じた。

2021.5.3

アクセス

高知県立牧野植物園

〒781-8125 高知県高知市五台山4200-6