静けさに潜む野性をカヌーで味わう
先住民族アイヌは自然の聖性を重んじてきた。その精神は今日にも確かに受け継がれている。釧路湿原に足を踏み入れて感じるのは、静けさの中にある野性である。水は湧き出すままに流れ、葦はおい茂り、ヒグマも、オジロワシも、エゾシカも、本能のままに生きてバランスを取っている。湖水に繁茂するヒシの実をアイヌ語で「ベカンベ」といい、この地には美味なるその実の収穫を祝うベカンベ祭りというものがあったそうだ。
1万年前の氷河期には陸地であった。6000年前、縄文人の時代は現在よりも温暖で、水位も2~3m高く、海であった。竪穴式住居跡が周囲の高台にいくつも見つかっており、暮らしやすい場所だったことが窺われる。やがて気温の低下に従って海水面も下降し、4000年ほど前に今の海岸線となった。内陸部は保水力の高い沼沢地で、湿地に生える葦や菅が、数千年の堆積を経て泥炭化し、広大な湿原が生まれたという。
塘路湖から釧路川へのルートをカヌーで下った。15年ほど前にも同じ川筋を下ったことがある。完璧な自然に囲まれて滑るように動く感覚が忘れられず、カヌーからの映像を撮りたいと考えた。8月2日、前日はこの地域には稀な高気温で、午前3時45分にカヌーに乗船した時には、湖面と外気の温度差によって生じる霧が水面を覆っていた。まるで水墨画の中にいるようである。鏡のような湖面をカヌーは滑るように進む。
幻想的、という表現が当てはまりすぎて言葉もない。白く霞んだ視界の奥から、ぼんやりと影のように形を成して現れるのは樹木や草。湿地に生えるヤチハンノキや、柳、あるいは葦の茂みか。蛇行する川は泥炭層の大地を少しずつ削り、岸に生えた樹木はやがて倒木となって水際に沈む。湿原の川は止むことのない蛇行を続けている。オジロワシのつがいに今年は二羽の雛が育った。発育がよく二羽とも親鳥よりも大きいという。
釧路と標茶の町の中間にある塘路の町はたいへん静かである。開発を控えているせいか大きなホテルも小さなホテルもない。しかしこの地でカヌーを楽しむなら、夜明け前の出発をお勧めしたい。もちろん、陽光の降り注ぐ光に満ちた湖面も素晴らしいし、夕日の湿原も美しいのだが。僕らが泊まったのは、ゲストハウス「とうろの宿」。湖を見晴らす高台に建つフラードームの館である。徒歩8分の距離に意外なほど美味しいパスタ屋がある。
2019.9.2