地域と生き続ける鉄道
房総半島を南北に走る小湊鉄道は1917年の創業であるから100年を超える鉄道会社である。現車両が導入されたのは1961年、ファイアーオレンジとモーンアイボリーの溌剌とした2トーンが自然の緑にひときわ映えている。一両あるいは二両編成の列車の風情には、ノスタルジーというよりむしろ未来を感じる。滴るような新緑の中を、鮮やかなコントラストの車両が通過する風景が、この地を訪れる人の心を打つからである。
「明るく・正しく・強く」というのが小湊鐵道株式会社の経営理念だそうだ。明るくというのは、前向きでポジティブという意味に加えて、仕事に精通しているという専門性を示すとのこと。正しいという文字は一に止と書く。つまり一線を越えない、人としての規範をしっかり守るということらしい。また、強くとは屈強であるよりもむしろ柔軟であり、流行りではなく継続を是とする考え方だそうだ。敬意を表したい理念である。
地域に根を下ろし、地元を支える経営が創業当初から続いている。常にこの地の時代の先端を拓いてきた会社でもあると、鉄道部長の御園生伸章氏は言う。テレビ放送が始まった時代には、駅に街頭テレビを設置したり、戦前は、ディーゼル発電で10を超える町や村に電気を供給していたり……。したがってこの地で小湊鉄道といえば「いい会社」の代名詞。「お互いさま」を大事にする「上総ごころ」の企業風土でもあるとか。
房総半島は、断層の渓谷や、樹種の多様な里山が織りなす自然豊かな地域であるが、ご多分にもれず過疎化と高齢化が課題である。小湊鉄道の利用客数も芳しい数字ではない。しかし、事業を多角化しつつ鉄道は大事に守られている。近年は地域住民と一緒になって里おこし事業が始まった。耕作放棄地に菜の花の種を播き、一面の菜の花が鉄道の新たな風景を生み出す。アスファルトを剥がして、木や花を植え、古い枕木を敷き、里の風情を取り戻す逆開発も。
数年前に、近くを流れる養老渓谷沿いの約77万年前の断層から地磁気が逆流していた時代の存在を証明する地質学的な発見があり、地質学の世界におけるこの時代区分の名称は「チバニアン」になった。地磁気の逆流で磁石のN極はS極になるそうで、地球の地磁気の流れは数十万年単位で入れ替わっているという。その断層を訪ねてみた。ひんやりとした川床は79万年前の地層だそうで、ボランティアの解説員が解説してくれている。
沿線には市原湖畔美術館もあり、現代的な空間の中で、丁寧なキュレーションによる展覧会が開催され、来場者を集めている。湖畔の風景を堪能しながらおいしいピザを食べられる店もあり、都心からさして遠くない房総半島だけに、少しずつ都市文化の香りも漂い始めてもいる。この施設のサイン計画は、グラフィックデザイナーの色部義昭の仕事で、その緻密な仕事ぶりが、建築の魅力に心地のいい奥行きを作っている。
列車の車内もすっきりとしたインテリアが清々しい。乗り合わせた車両の座席は明るい茶色で、肌に心地いい風合いを湛えていて、清潔感も申し分ない。近年流行している豪華列車とは対極の簡素さだが、向き合わせ仕様の座席で、のんびりと窓外に流れる風景を楽しむことができたなら列車の旅は十分ではないか。手入れされた里山や水田、そしてお花畑の風情を、車窓から楽しむ心の余裕の方が豪華な客室よりよほど重要である。
宿泊は、列車の終点上総中野駅からクルマで20分ほどの「まるがやつ」という古民家改装の宿を利用した。築二百年の堂々たる古民家であるが、巧みな改装で居心地がよかった。4月の下旬は寒さも和らぎ、カエルの合唱を聞きながら、屋外に用意されたファイヤープレイスで焚き火をした。不思議なもので、焚き火をしながら酒を飲むとなぜか酔いがまわらない。火を眺めながら、未来の日本の宿について思いを巡らせていた。
2023.5.8