里山の稲田に囲まれて

中央本線の小淵沢駅から車で約10分の集落の中にぽつんと佇む一軒家である。宿の名前「小泊」を体現したような風景が現れるが、施設の正式名称は「小泊Fuji」である。2023年の8月にできた。八ヶ岳連峰と南アルプス連峰の間にある農村集落で、周囲は稲作の水田である。遠景の木々の間から確かに富士山が顔を出している。遠くに見晴らす山々の姿が晴れやかだが、よく手入れされた里山の田園風景が特に美しいと思った。

宿の建築は、独特の作風で知られる建築家・建築史家の藤森照信氏の手になる。周囲の田んぼから少し高くなった土地に立つ一軒家なので、近づいていく際に歴然とそれとわかる。とても可愛らしい建築である。銅葺きの屋根の上に木が植えられているのは藤森建築の定番「芝棟」である。茅葺き屋根の棟の上に芝土を置いて棟の固めとし、植物が根を張ることで強度を得るという民家の知恵であるが、ここでは桜を植えてあるそうだ。

藤森氏の芝棟は、そうした理屈よりも情緒の方が優っていて、その微笑ましい外観に引き込まれる。この風景を目にした人は、やはり一度泊まってみたいという誘惑に駆られるのではないだろうか。かく言う自分も、この写真を一目見て、宿泊してみたくなった。春には花をつけた桜が華やかに屋根を彩るのであろうが、花のない木のままでも、十分に歓迎の風情はあり、ここを目指して来訪した客に手を振ってくれている感じがする。

外観と同様、室内も隅々まで手の仕事が感じられて楽しくなる。コテの跡を残した漆喰の壁は柔らかく、ユーモラスな形をした暖炉や階段の手すりの有機的な曲面へとそれは続いている。台所の素材も漆喰に準じた白で、床やドア、テーブルや椅子などの明るい木の素材と、やさしいコントラストを作っている。窓はいずれも格子のはまった正方形で、そこから差し込む四角い格子状の光の面が室内に落ち、時間とともに移動する。

家具類も独特の風貌だ。椅子は辛子色の丸い座面と、マッサージ機のような突起が腰椎を支える仕様。金属と足元の木部の間に白いコーキング素材が詰められていて、洒落た靴でも履いているかのようで愉快な気持になる。この椅子に座り、台形のテーブルの上で、用意された食材を自分たちで調理して食べる。こごみやわらび、菜の花やわさび菜、ケールやかぶに、紫にんじんとごぼう、そして椎茸。土地の風味満載の豚しゃぶである。

宿の切り盛りは山越典子さん。藤森氏の建築に惚れ込み、2010年に氏に宿の設計を依頼、約13年かけて企画を実現させた。藤森建築に触発され、2012年に八ヶ岳に移住し、現在は大工のご主人と二人で「くらしまわり」というユニットを結成し、活動している。衣・食は典子さんの担当で、住はご主人の守備範囲。ここも、ご主人とその仲間で担当したとか。朝食のグラノーラとホットケーキミックスの製造は典子さんが行っている。

部屋の窓から眺めると、青空が印象的に見える。家の開口は大きい方がいいと思っていたが、涼しい気候のこの土地では、断熱の意味で小窓が有効なのだろう。小さな窓に切り取られて見る景色もいいものだと思った。二階の小部屋は、天井が複雑な造形になっていて、入り込む光の反射を受けて、面白い陰影を作り出している。藤森氏の建築は異形の空間にも見えるが、現代人の自然への想いに寄り添う空間なのかもしれない。

そして何より、この家から眺める田んぼの風景が素晴らしい。ちょうど田に水を張ってしろかきをし、田植えの準備をしている時期であった。田の脇に丁寧に苗代が用意されていた。畦道の草刈りも周到に行われていて、この土地の人々の米の栽培への心配りが感じられる。芝居の書割のように作られた観光農場の風景ではない。収穫した米は、はさがけで乾燥させるそうで、秋の田の光景を想い浮かべると幸福な気持が湧いてきた。

2024.7.1

アクセス

小泊Fuji
〒399-0101 長野県諏訪郡富士見町境