迷宮のような温泉宿
落ち着いた樹々や野草の配置が、野趣あふれる前庭を生み出している。響き渡るせせらぎの音を聞きながら、門をくぐり、橋を渡って宿に入るまでの行程が、異界へ入り込む期待感を弾ませてくれる。海外経験も豊富で、隙のないリゾートホテルを数多く経験してきた日本人が、ああ、日本にもこんな贅沢が隠れていたのかと、少し気楽に泊まってもらえる温泉宿を目指したいと主人は言う。
この宿を引き継いだのは1978年、現在の主人金井辰巳は弱冠25歳であった。両親が経営する宿だったが、宿を手伝い始めてすぐに母親が大病を患い、経営の重責を背負うことになった。田舎の宿が、冒険的な経営に乗り出す風潮が散見される時代だったが、識者の意見にも耳を傾け、山里の小さな宿でできることをコツコツやろうと腹を据えた。
当初、設計事務所に提案された改装計画は想定予算の5倍となり、実施図まで仕上げたのちに決裂した苦い経験もある。この失敗を糧として、以後は小さな設計事務所と二人三脚で、地形に逆らわない施設の形を模索してきた。現在の宿の形ができたのは1988年。岩山の傾斜をそのまま利用し、生えている樹を伐らずに生かした。迷宮のように入り組んだ施設は歩き回るほどに心地がいい。
部屋の調度は洋風クラシックである。和の空間を期待する向きには意外な趣向であるが、主人が考え抜いた果ての選択であり、個性の一貫性が時を過ごすほどに腑に落ちてくる。和の調度は椅子に課題があり、座りやすさと山里風の建築にそぐう様式を模索するうち、濃色の洋風家具に行き着いた。確かに温泉宿で忘我の時を過ごすなら、異界の様式に感覚をゆだねるのもいいかもしれない。
暗いトンネルから湧き出す湯による「洞窟風呂」も興味深いが、露天風呂を含む三つの風呂も、石の配し方、湯船の大きさ、そして流れ出す湯の美しさなど、温泉の愉楽を心得た設計で快適である。18室という客室数は、館の規模を考慮すると意外なほど少ない。「ハレの日の田舎のお母さんの料理」を標榜する食のサービスも、山の宿の料理として申し分ない。
2020.8.3