日本のベニスではない、伊根の舟屋である
京都の日本海側、若狭湾の西の端、丹後半島の北東の先にポツリと小さな南向きの湾がある。若狭湾を下向きの握りこぶしにたとえるなら、同じ湾でも伊根湾は小指の付け根の目立たないホクロ。しかしこの小さな入江には、静けさと、豊かさと、海を抱いて暮らす人々の誇りが満ちていた。湾の入り口に位置する青島が、外海の荒波から湾を守り、程よい潮流を湾内にもたらしている。沖の定置網に向けて、毎日、夜明け前に漁船が出ていく。
伊根湾は、干満時の潮位差が約30cmしかない。太平洋岸の地域だと2m~3m、有明海は大潮時にはなんと6mだそうだ。海はひとつながりのものと考えていたのでこの事実には驚かされた。日本海は海流の関係で太平洋岸より潮位の差が小さく、伊根湾は中でも特別だとか。さらに青島のおかげで波も立ちにくい。そんな環境が、船の格納庫を一階に持つ「舟屋」が海に向かって居並ぶ独特の街並みを生み出したと考えられている。
日本海に突き出した丹後半島は山がちで、山からすぐ海になる。古墳時代から人が住みついたといわれているが、最初は海と距離をとって暮らしていたそうで、徐々に海に近づき、海岸すれすれでも暮らせる確信が深まるにつれて湾をめぐる集落が形成されたとか。今から250年ほど前にはすでにいまのような形の舟屋があったといわれている。重要伝統的建造物群保存地区に選定されているこの地の現在の舟屋は約230軒。最古の舟屋は江戸時代のものである。
舟屋の一階は海に向かう斜面になっていて、これは船を屋内に引きあげ格納する工夫である。木製の船は腐りやすいので、こうした方法で船を家々が管理していた。二階は住居ではなく漁具を置く場所。舟屋の背後には街を一巡する細い道が走り、道を隔てて母屋がある。舟屋と母屋で一式。人々はもっぱら母屋に住んでいる。舟屋は海に向かって妻が並ぶ配置であるが、母屋は海や道に平行に軒を並べる平入りの配置である。
伊根の人々はこの静かな海と暮らしている。舟屋のすぐ前の海は庭のような存在だが、いきなり2mの深さがある。透明度の高い海を覗きこむと魚影がはっきり見える。軒先からロープが数本、海に垂れていて、その先にあるのは「もんどり籠」と呼ばれる簡単な仕掛け。調理で出る魚のアラを入れておくと、大小様々な魚やタコが入ってくる。獲物がとれたら隣の生け簀の籠に移す。漁と冷蔵庫がコンパクトに軒先に収まっている。
宿泊したのは「鍵屋」と「和光」。舟屋を改装して客を泊めはじめたのは鍵屋の鍵賢吾・美奈夫妻。気のおけない空間で、その日に獲れた魚介類を見事な包丁さばきで出す。父親は賢さんを公務員にしたかったそうだが、このあたりで公務員というと、目と鼻の先にある郵便局になってしまう。500m先に未来を閉じ込められるのはご免と京都に脱出、著名ホテルの厨房で働きながら、通い始めた料理学校で奥さんの美奈さんに出会った。
街を積極的に案内してくれたのは、伊根町観光協会の吉田晃彦事務局長。この地に赴任して8年以上になるが、オーバーツーリズムに毒されない伊根をどう作り、守っていくかに腐心している。すでに地元の人たち皆と顔見知りで、吉田さんが声をかけてくれると、おばちゃん、おばあちゃんが舟屋の中や軒先を自由に見せてくれる。当然のことだがどこの舟屋からも伊根の海と、対岸の家並みの、のたりとのどかな景色が見える。
2020.10.5