丸太を渡した大浴槽
大浴場の横綱を挙げるとすると法師温泉「法師の湯」がまず頭に浮かんでくる。群馬県と新潟県の県境、人里離れた山奥の谷間にポツリと存在する温泉宿である。この温泉の特徴は、大きな浴槽がどかんと田の字に区画されている、小細工をしない野太さ、王道感とでも言おうか、些事を忘れて身を投じられる安心感は格別である。入った左の奥が一番ぬるく、時計回りに熱くなるが、一番熱い湯もどちらかというとぬるい。
丸太を縦に二分割した横木が、それぞれの区画の浴槽に渡されている。これは湯に浸った時に、頭や足をもたせかける仕組みである。固定されていないので、ちょうどいいところに動かして使用できる。これで最適の姿勢を得て、ぬるい湯で長くのんびりとくつろぐのである。湯は風呂の下の地面から直接ぷくぷくと源泉が湧き出している。パイプ配管などない。源泉の上に立派な建築が建てられている。
法師の湯の建物は、明治二十八年建立の堂々たる木造建築。窓の上端が半円形をしていて、天井の高さや、窓から差し込む自然光の空間はさながら教会のようである。この施設を建立した温泉の創始者・岡村貢は、辰野金吾の「東京駅」の建築に天啓を得て設計をさせたそうだ。上越鉄道の敷設に尽力のあった岡村貢は、貴族院議員として頻繁に東京を行き来していた。現在、六代続いているこの宿の開祖にあたる。
確かに、どこか東京駅のような威風を感じさせる建築であるが、苔むした屋根は土地の山河によくなじんでいる。小さな川の両岸に施設の建物が並び、せせらぎの音を跨ぐように渡り廊下が架けられている。客室の窓や、渡り廊下から眺める宿そのものの風情も心地よい。日本各地の名所と呼ばれる場所には必ず足跡を残している与謝野晶子も、籠を使って険しい峠を越えてやってきたとか。その古い記録も興味深い。
山ふところに抱かれるという、言葉通りの場所で、水も緑も滔々と湧き出す日本という風土のありようはこうだと、すんなりと腑におちる。近くにあるという滝を見に、宿の下駄を履いて散歩に出たら、知らぬ間に足首あたりにヒルが吸い付いていて驚いた。温泉の敷地の外は国有林で、周囲の自然に歩調を合わせて木を伐らないという宿の方針のおかげで、ここは深い自然に幾重にも守られている。
2019.10.1