水平線を抱く宿
海景とその移ろいに向き合う宿である。建築は竹原義二。小豆島で焼いたベンガラの瓦と赤褐色の印象的な建築であり、水平線に張り出す6つの部屋がある。建築家ピーター・ズントーのスンビッツの教会に着想を得たというラウンジは、椿の葉を伏せたような屋根に船底の構造を用いている。ズントーのスイスアルプスの小さな村の教会は、夏と冬に二度尋ねたことがあるが、そのオマージュのような建築がここでは海を讃えている。
部屋はつつましいが、海に臨むデッキが各部屋にあり、開口部は海景を切り取るピクチャーフレームのようである。手摺の向こうに椿が植えてあり、赤い花を咲かせていた。全ての部屋は太陽が沈む西向きであり、晴天の夕方にデッキに出ると滴るような夕日が正面に見える。明け方は静かに空と海が同時に姿を現し、夜は月光が銀色に海面に滲む。確かに、海景とその変化を満喫する装置としてはこの上ない。
海椿葉山は、主人である伊谷秀夫とその一家による家族経営である。開館は1999年、構想はその10年前から始まっていた。伊谷氏の母親が経営していた湯治場と観光旅館を合わせたような宿を氏が手伝い始めた頃である。嫁いできた輝世夫人も構想に加わり、建築家の起用に踏み切った。地形と熊野の杉や檜を生かした個性的な宿は、瞬く間に多数の雑誌に紹介され、建築好きや極まった景観を有する宿に興味を持つ客を集めてきた。熊野古道が注目され始めた昨今は、欧米からの来館者も増えている。
床の間のある部屋「海椿」は、狭いながらも空間に動的なダイナミズムを生み出している。床に向かって右手の壁は、奥に開口部があり、テラスからの光が壁沿いに呼び込まれてくる。左手は壁がなく柱がぽつりと立っている。外光の呼び込みと、孤立した柱によって、床の間に向かう人の気持をふわりと持ち上げるような不思議な空間が生まれてくるのである。そこに女将は20年、花を生け続けてきたそうだ。
温泉は、冷泉であるために規模は小さい。しかしこの宿に大きな温泉は似合わない。宿にあるのは水平線である。風呂も同様で、湯に浸かると正面に水平線がある。窓を開け放てば、海の変化を肌で感じることができる。男湯は「荒磯の湯」女湯は「落陽の湯」。いずれも景観から素直に命名された。料理は大阪の辻調で学んだ主人の包丁で本州最南端の港のものが供される。事前の相談次第では予想外の海の幸にありつける。
2019.11.5