観光の解像度 
					第1章 アジアに目を凝らす 
				
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					001
					ホテルとはなにか 
				 
				
世界の風土の魅力に目を凝らそうとすると、その先に忽然と現れてくるものがある。ホテルである。それはなぜか。素晴らしくよくできたホテルは、その土地の最良の解釈であり、咀嚼された風土そのものだからである。
				 
			 
		
		
			
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					002
					ジェフリー・バワとその建築 
				 
				
					
建築家のフランク・ロイド・ライトは、自然の美しさが景観として印象づけられるのは、人工物としての建築がそこにあるからだと語っていた。確かに、自然があるだけでは、その美しさは立ち上がって来ない。そこに人為の象徴である建築を対置させることで、味わうべき自然が立ち上がってくる。氏の代表作のひとつ「落水荘」は滝を跨いで作られた住宅である。建築を設けることで、ただそこに滝がある以上に自然が際立ってくる。
					
ジェフェリー・バワは、スリランカの富裕な家の次男として生まれ、両親を比較的早くに亡くしているが、親族の支えによって英国のケンブリッジ大学に留学している。したがって比較的早くから西欧とアジアの文化的複眼性を持っていたと想像される。イタリアが好きで、生涯をここで過ごしたいと考えるほどだったとも言われている。ロールスロイスを駆って世界を旅したそうで、貧乏なバックパッカーではなかったようだ。
					
朝、日が昇る前後の時間に、建物の中を歩いてみた。日の出前後は、最高の静けさと繊細な光をたたえる特別な時間帯だ。このホテルの建築も、あらゆる空間が、生まれ出る光に神々しく感応していく。鏡面のようなプールがほんのり赤らんだ空を映し、さざなみの立つ湖の遠景と素晴らしいコントラストをなしている。差し始めた低い光が、木漏れ日を白壁に映し始める。階段の手すりを支える縦棧は華奢で、明澄な光によって、その影が床に細く長く落ちる。
				 
			 
		
			
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					003
					植民地支配の後に生み出されたもの 
				 
				
					
ジェフリー・バワの建築に注目し、旅の最終目的地たるホテルのかたちを、世界に問える完成度で作り上げた人物がいる。アマン・リゾーツの創始者、エイドリアン・ゼッカである。ジャワ島出身で、父方に東インド会社の事業に従事していたオランダ人の血脈を持つこの人物は、バワと同じく、西洋がアジアを見る目を心得ていたと同時に、資本の論理の限界とローカル文化の潜在力に同時に気がついていた。植民地支配が終わり、スカルノ政権時のインドネシアでは、旧地主の土地は国有化され、支配層としての資産や地歩を失った氏は、シンガポールに拠点を移し、アジアの美術や旅行をテーマとする雑誌でジャーナリストとして腕を振るっている。植民地を背景とする特殊な生い立ちや経歴は、世界の富裕層のライフスタイルや嗜好を、自らのビジネス感覚に染み込ませていたはずである。
					
人類史の中で、アジアはむしろ世界の文明をリードしていたはずだが、近代化の機運はひととき西に傾き、西洋に市民革命が起こり、市民社会や資本主義がいち早く立ち上がった。蒸気機関の発明に象徴される産業革命も期を同じくして欧州に沸き起こり、たちまち文明は西高東低の様相となり、優位を獲得した西洋文明が世界を席巻したのである。市民革命や資本主義がなぜ東洋で起こらず、西洋が先行したかというのは、歴史の不可思議なところであるが、この事実によって、西洋文明は、明らかな優位性を持って、アジアの文化を侵食したのである。
					
東南アジアの国々は、太平洋戦争の終結を機に、植民地支配を逃れ、独立していくわけで、ジェフリー・バワとエイドリアン・ゼッカは、それぞれの祖国が植民地支配から自立していく時期に、青年期あるいは少年期を迎えている。当時のスリランカやインドネシアで、ジェフリー・バワやエイドリアン・ゼッカが見ていたものはなんだったのか。それはまさに植民地支配を、逆の透視図で眺める、アジアの風土や文化の、めくるめく可能性そのものではなかっただろうか。
				 
			 
		
		
			
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					004
					ジ・オベロイ・バリ 
				 
				
					
僕が初めてホテルの存在に胸がときめいたのはバリ島のホテル、オベロイであった。二十代も後半の頃である。二十歳の頃、バックパックを背負って2ヶ月ほど欧州やアフリカ北岸、インド、パキスタンなどを放浪したことがあったが、リゾートのような場所にはとんと縁がなかった。ある時、ふと思い立って休暇をとり、家内と出かけたのがバリ島であった。その時に泊まっていたのはクタという地域の海岸沿いのホテルだったが、ダイニングの雰囲気がいいと勧められた隣のホテルに夕食を食べに出かけた。
					
浜辺へと降りつつ、幅広の階段が奥へ奥へと続いているのであるが、踏み板一段ずつの両端に一つずつ、蝋燭の灯りが置かれている。それがずっと、敷地の果てまで、めくるめくうねりを伴って続いていたのである。そのシーンに、僕は鳥肌が立つような感動を覚えた。
					
文化は不思議なものだ。植民地というものが、仮に資本主義による搾取の歴史であるとしても、植民地が醸成した文化は、その統治が終わっても容易にその土地からは消え去らない。不平等な環境で利益を一方的に収奪される歴史があったとしても、そこに生み出された愉楽は、それを享受した側のみならず、「贅」を差し出している側にも強い影響を残す。それはおそらく、そこに昔からある風土の魅力やローカルの文化が、グローバルな文脈に差し出すことのできる豊穣、つまり価値の鉱脈として探し当てられた実感を、ローカルの人々の心の中に残すからかもしれない。
				 
			 
		
		
			
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					005
					もしも中国が大航海時代を制していたら 
				 
				
歴史に「もしも」はないという。確かに歴史は事実を重んじる学問であり、軽率な仮定は持ち込めないからだろう。しかし、僕は歴史学者ではない。未来を考える上で、歴史を糧にするなら、ふんだんに「もしも」を設定し、素朴な問いを発していくことでむしろ史実のリアリティをつかんでみたいと思う。また、そこから未来のストーリーを構想してみたいとも思うのだ。
					写真:akg-images/アフロ 大航海時代の海図。欧州からインドへの航海の情熱が偲ばれる。『カンティーノ天面天球図』(1502) 
たとえば、宋代の中国は、あらゆる意味において文明の先端にあった。紙の発明は漢の時代、紀元の前後の話であるが、書物として蓄えられた知を整理・体系化し、厳密な管理体制のもとでこれを刊行・流通させ、血筋や家柄によらず、知にアクセスできる環境を整えていたという点で、宋代の中国は抜きん出ていた。校閲や彫版印刷も緻密に組織化されて行われており、書物の印刷と流布に関しては世界のどこよりも質・量ともに充実していた。こうした状況を背景として科挙という試験制度に磨きをかけることで、抜きん出た頭脳や才能を官僚として登用することができたわけである。当時の国力とは、合理的な行・財政管理能力と武力を総合したものであるから、この時代の中国を凌駕する文明が簡単に出現するとは思われないほどに、制度の洗練度が突出していた。欧州はまだ印刷も書物の流通もない暗黒の中世であった。この時代に、もしも中国が海洋進出に興味を持っていたらどうだっただろう。羅針盤すなわち方位磁石はすでに中国で発明されており、宋代では航海にも用いられていたはずだ。
					提供:Science Photo Library/アフロ 明代、中国艦隊の図。鄭和に率いられた大艦隊は1405-1433年の間に、インド洋及び東南アジア沿岸を7回にわたって訪れ、一部はアフリカ東岸に達していた。 
コロンブスの船団が約100人、船の大きさも6分の1程度であることを考えると、明の船団の規模は凄まじい。この船団はインド洋やアラビア海の諸国を訪れ、インドのカリカットへの到達は1498年のバスコ・ダ・ガマの到達よりも90年以上早い。そして4度目の航海では船団の一部はアフリカ東岸、現在のケニヤあたりまで到達したという。
					漢籍からの写しと言われている麒麟の図(19世紀)。EXPO 2005 AICHIカレンダー『高木春山/本草圖説』(2000)より部分。撮影:藤井保 
大航海時代をリードしたポルトガルやスペインの場合は、オスマン・トルコによって地中海の交易を支配・制限され、海洋交易を他の海に求めざるを得なくなった両国が、王命で荒くれ者たちに一攫千金を奨励し、命がけの航海と引き換えに富と名声の獲得を許容した海洋進出であった。つまり国益を得るための大胆不敵なギャンブルであった。寄港先や食料補給地の確保など、進出への準備も、未知なる航路の開拓も、真剣勝負である。いきおいその方法は乱暴であることをまぬがれなかったと想像される。
				 
			 
		
			
				
				
現実に中国は大航海時代を制することはなかった。明でも清でも、科挙の制度は相変わらず続いていたが、長く続きすぎる体制は必ず制度疲労を起こす。どうやら科挙をなす知識は誤解を恐れずに言うならば、芸術文化系にやや偏りがあって、エンジニアリングのような実学は軽視されがちだったようだ。大学や図書館が整備され、教育が成果をあげ、科学知の勃興が旺盛となった西洋に、エンジニアリングによる革命が先んじておこったのである。
					提供 : Bridgeman Images / アフロ 英国汽走砲艦ネメシス号により砲撃される清軍のジャンク船(1841) 
一方、千年以上一つの国として長らえ、鎖国をしてポツリと東アジアの端に浮かんでいた日本は、大化の改新の時代からずっと最強国として意識してきた中国が、あっけなく英国に武力制圧された阿片戦争の顛末を目の当たりにして、大きく動揺するのである。変化に対する感覚は、大国中国よりも小国日本の方が敏感で、中枢に影響を及ぼすのが早かった。長崎はセンサーとして海外情報をもたらし、阿片戦争から30年を待たずして、武士が統括していた日本の幕藩体制は崩壊し、大政奉還が行われ、明治政府が誕生するのである。
				 
			 
		
			
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					007
					第二次大戦後の日本と製造業 
				 
				
観光を産業的視点で捉え直すならば、世界における日本の位置、あるいはその存在感を客観的に捉え、アップデートしておく必要がある。やや回りくどいけれども、日本の未来資源は何かを考える上で、近代史を冷静に反芻しておくことが肝要と考えるので、もうしばらくお付き合いいただきたい。
ポツダム宣言を受諾し、敗戦を受け入れた日本の状態は惨憺たるものであった。空爆による破壊は、東京や大阪といった大都市にとどまらず、地方都市も、度重なる空襲によって破壊された。まさに国土は焦土と化したのである。
さて、話を戦後に戻そう。太平洋戦争が終結したのち、焦土と化した日本を牽引していく産業は「製造業」であった。石油や金属など、資源に乏しい日本において、効率良く経済を立て直していくヴィジョンとして原料を輸入し、製品として輸出する「加工貿易」、すなわち「工業」が立ち上がってきたのは自然の趨勢かもしれない。アメリカに安全保障を任せ、産業振興に集中・邁進できた環境も、戦後の日本の工業化と高度経済成長の追い風となった。航空機や戦艦を製造・制御する技術を平和的な製品の製造に転化させ、繊維、造船、鉄鋼、自動車と遷移しながらも日本の工業は驚くべき速さで進化を遂げ、経済的に目覚ましい成果をあげた。
				 
			 
		
		
			
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					008
					足元の見つめ方 
				 
				
産業転換の遅れもそうだが、日本が経済の興隆期に得ることができたにもかわらず、見過ごしてしまったものがある。それはアジア全体を視野に入れた未来ヴィジョンと、自国の美意識のアップデートである。
					提供 : MeijiShowa.com/アフロ 東京駅(撮影日不明) 
もちろん、文化とは、消費財のように使い尽くされてなくなるものではない。文化を受け継ぐ人々の感性の根元に、種火のように灯り続けているものであり、その気になりさえすれば再現できる力を持つ遺伝子のようなものだと僕は思う。建築も、庭も、絵画・意匠も、工芸も、生活美学も、明治の頃に失速したかに見える日本文化は、蔵の奥にしまいこまれた先祖の遺産のようなもので、丁寧に取り出して埃を払い、新たな世界文脈の中で、光を当て直してみる時期がきていると思うのだがどうだろうか。アジアを含む、世界の文化の多様性に貢献し、豊かに輝かせる資源を自国文化の足元に見出し、未来資源として活用する時が到来している。そんな風に思うのである。
				 
			 
		
			
				
					第1章 アジアに目を凝らす
					009
					開かれていること 
				 
				
一方、欧州への憧れと傾倒も、アメリカ崇拝と並行して醸成されていく。大きな挫折を経て復興へと舵を切った日本であるから、近代主義に先に到達した欧州の合理性をもとにした、都市、環境、経済、生産、教育、といったものへのアプローチに敬意を覚え、これを真摯に学ぼうとした。アメリカン・カルチャーは、誤解を恐れずに言えば、好景気に沸き返る享楽的な匂いが強かったのに対し、欧州は伝統と近代的理性の融合が醸し出す勤勉かつオーセンティックな魅力に溢れていた。
					写真 : 読売新聞/アフロ 銀座・三越にオープンした日本マクドナルド第一号店 (1973年9月16日撮影) 
しかしながら、自分たちが敗れたのは、先進的な欧米文明であると思い込み、それらに疑いのない憧れを持ってしまったことによる、アジア諸国への軽視が、一方では生まれてしまっていたのかもしれない。もしも視点を変えて、アジアをひとつの母体と考えるような理性が持てるなら、そこから、豊饒な未来や産業の可能性が見いだせるかもしれないと思うのだがどうだろうか。
				 
			 
			
			
			
			
				
					
第2章 ユーラシアの東端で考える 
				
				
					第2章 ユーラシアの東端で考える
					010
					世界を際立たせるスパイス 
				 
				
				
20歳の時、はじめて世界を旅した。パキスタン航空の1年間のオープン・チケットを買って、北京、ラワルピンディ経由でロンドンに入り、フランス、スイス、イタリア、ドイツを回った。その後、ユーゴスラビア経由でギリシアに入り、ミコノス島に少し滞在したのちにエジプトに渡り、そこからパキスタンに飛んで、陸路でインドに入るという、いかにも若いバックパッカーの旅であるが、この旅で僕は世界の感触を少し掴んだ。
				
				 
			 
			
			
			
			
				
					第2章 ユーラシアの東端で考える
					011
					ラグジュアリーとは 
				 
				
				
古代から中世にかけて、価値の頂点には「王」があった。こういう大上段に振りかぶったような内容について語ることには抵抗を覚えるが、世界規模の観光の未来を考える上では、「価値」というものの来歴を整理しておく必要を感じるので、大ぐくりに、自分の解釈を述べておきたい。
					シェイフ・ロトゥフォッラー・モスク (イラン) 
欧州もまた、絶対君主の時代には、バロックやロココといった極めて複雑な装飾様式が考案され、王の威光をまばゆく彩ったのである。信仰のシンボルであるキリスト教会もまた、戒律やモラルの象徴として、聖性に満ちた冒しがたい威風を発し続けなければならず、ゴシックに代表される壮麗な建築に莫大なエネルギーが投入されてきたのである。王侯貴族が座る椅子は「猫足」と呼ばれる湾曲や様々なディテイルがあり、座る道具というより、位の高さを暗示する記号と考えた方がいい。
					ヴェルサイユ宮殿 鏡の間 (フランス) 
もちろん、華美な装飾の中にも、洗練や抑制が生まれ、エレガンスという慎み深さも派生したけれども、庶民の憧れは、王宮を頂点とした晴れやかな装飾に向けられた。王の力や権威が形式化し、普通の生活者が主役となった今日においても、人々のラグジュアリーへの憧憬は、根強く残っているのである。
				
				 
			 
			
			
			
			
				
					第2章 ユーラシアの東端で考える
					012
					クラシックとモダン 
				 
				
				
一方、王の時代は終焉を迎え、世界は近代社会へと移行した。これは西洋における「市民革命」というかたちで始まった。世の中の価値の中心は王ではなく、普通の生活者ひとりひとり、すなわち市民が主役となる社会が到来したのである。フランス革命が18世紀の終わり頃であることを考えると、さして昔の話ではない。このような社会においては、合理性という考え方が徐々に社会に行き渡り、人間が作り出す建築も家具も日用品も、過剰や無駄を省き、素材・機能・かたちの関係は、最短距離で結ばれる方がよい、という明晰な考え方が立ち上がってきた。これを近代主義、あるいはモダニズムという。
					
一方、市民革命のみならず、産業革命というテクノロジーのイノベーションが引き続き欧州でおこった結果、世界の富はひととき欧州、あるいは北米へと集められ、ラグジュアリーの主宰者は王から企業家あるいは富裕層へと移っていった。成金という言葉があるが、庶民が努力と幸運によって大きな富を手にした場合、その富の使い道として行ったのが、自分の邸宅を豪勢に普請することであった。あたかも昔から高い位の貴族であったかのように装う振る舞いを、将棋の「歩」が「金」に変わる「成金」になぞらえた言葉である。西洋ではこれをヌーボー・リッチというそうだ。いずれも富を得た者たちの、板につかないラグジュアリーを揶揄するニュアンスが感じられる。要するに社会のメカニズムは更新されたけれども、かつてあったオーソリティへの憧れは、根強く残っていたようである。富裕層は王の記号であった豪奢を志向し、それを冷ややかに観察する庶民は、富だけでは簡単に手に入らない価値として、オーソリティへの憧れや敬意を密やかに抱いてきたのかもしれない。
					
街の中心に教会の尖塔がそびえ、土地の秩序を差配して来た領主の城が地域のヘソを作り、庶民たちはその様式を進んで受け入れ、それぞれの住まいや広場、市場や盛り場を形成していく。長く続いてきたものの中には、それだけの時間を、日々の暮らしや充足に捧げてきた人間の叡智が溶け込んでおり、人々はそれを合理性で割り切って更新することはできないのかもしれない。したがって、世界の人々のクラシシズムへの志向は想像以上に根深い。
					
モダニズムの萌芽を経て、ドイツのバウハウスでデザインがその思想の双葉を広げ、以降、爆発的に、外界環境形成における合理的な考え方が世界に広まった。とはいえ、世の人々の豊かさへの憧憬はまだまだ保守的なのである。この傾向は特に富裕層になるほど顕著である。
				
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第2章 ユーラシアの東端で考える
					013
					日本のホテルはなぜユーロ・クラシックなのか 
				 
				
				
欧州の人々が、かつての王侯貴族の趣味を伝統と考え、その様式に憧れやノスタルジーを覚えるのは、仕方がないというか、自然なことかもしれない。しかし振り返って日本を見ると、名だたるホテルがいずれも、同じような方向を向いているように見えるのはなぜだろうか。
					
そんなことを考えつつ、筋の通った日本の旅館のたたずまいなどを思い返していると、腹の底からふつふつと、不思議な意欲のようなものが湧き上がってくるのを抑えられない。
					
家具調度、織物、置物、飾り物を和様にする程度の表層的な解釈ではなく、土地や環境と向き合う建築そのもののあり方や、客室やホテル空間をなす基本言語、具体的には寝具やテーブル、ソファ、浴室、洗面台といったものから、ロビー、宴会場、レストラン、ライブラリー、スパなどの共用施設まで、ありとあらゆる空間言語に、世界の人々に心地よく使ってもらえる機能を前提に、日本の美意識を躊躇なく注入すればいい。もてなしの作法は言うに及ばずである。
				
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第2章 ユーラシアの東端で考える
					014
					シンドラー・ハウス 
				 
				
				
桂離宮を始めとする日本の伝統建築が、バウハウスの創始者である建築家ワルター・グロピウスや、同時代の建築家ブルーノ・タウトらに新鮮な感動を与えた経緯はよく耳にするエピソードである。ただ、彼らの評価を、当時の日本建築界のリーダーたちは、やや耳障りに感じていたそうだ。
					
ロスアンジェルスに「シンドラー・ハウス」というものがある。これはルドルフ・シンドラーという建築家が作った自邸である。シンドラーは、オーストリアのユダヤ系中流家庭に育ち、オーストリアで建築を学んだのちに、米国に移住した建築家で、のちにロスアンジェルスを中心に、近代的な住宅を多数設計している。フランク・ロイド・ライトに師事し、ライトが帝国ホテルの仕事のために、日本とシカゴを行き来していた時代に、シカゴのライトの事務所を守ったり、また新たな施主からの仕事に対応するためにロスに移住して仕事を始めたりしている。シンドラー・ハウスは、ロスに移住する際に設計した住宅で、結婚したばかりの妻と自分、そしてもうひと組の友人の建築家夫婦がキッチンやシャワーなど、水まわりを共有しつつ暮らせるように設計されている。
					
確かに、軒の低さは、ロスの光の中でも落ち着いた印象を生み出している。低い軒でフレーミングされた外部は、庭として内部と自然につながっていくように感じられる。この建築における庭は、外部というよりも「居間」として想定されていたという。
					
シンドラーが、帝国ホテルの仕事にどう関与し、日本のどの伝統建築に触発されたのかは、知る由もないのだが、シンドラー・ハウスは、自邸、つまり自分が使う建築、別の言い方をすると「客」あるいは「ユーザー」として日本建築を咀嚼したものとして眼前に現れた。それは、歴代の日本の建築家たちが背負っていた重たいものを全く感じさせない軽みを持った日本流であった。
				
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第2章 ユーラシアの東端で考える
					015
					外からの目 
				 
				
				
ここで再び、エイドリアン・ゼッカとアマン・リゾーツに触れてみたい。僕は密かに、アマン・リゾーツのホテルが日本にできることを恐れていた。なぜなら、日本人がまだ達成しきれていない、日本をもって世界をもてなすホテルの形を、先んじて示されるのではないかと心配していたからである。
今日、エイドリアン・ゼッカは、残念ながらアマンにはいない。ホテル経営というものは、常に株主の意向や資本の動きによって変化していくもののようだ。したがってゼッカなきあとのアマンがどのような思想で運営・展開されているかは定かではない。それでも、日本に構想されるアマン・リゾートのホテルに僕が恐れを抱くのは、爛熟のコロニアル文化の中で育ち、欧米のインフルエンサーの嗜好を知り尽くし、そして日本文化の潜在力もわきまえているという、その経験の延長線上に日本のホテルを構想できる創始者、エイドリアン・ゼッカの影響力に、一目も二目も置いているからに他ならない。
それでは、和の空間デザイン言語と一体はどんなものか、何が日本のラグジュアリーたり得るのか。そろそろ本題に入っていかなくてはいけない。これについて僕は以下のように考えている。
・内と外の疎通
これらの課題に対して、いかに具体的な解答を生み出していくかという点に尽きると僕は考えている。以下、順を追って語っていくことにしたい。
				
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					
第3章 日本のラグジュアリーとは何か 
				
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					016
					内と外の疎通 
				 
				
				
屋外と屋内とが融通する居住性、これが日本という風土における暮らしの知恵であった。冬の寒さよりも夏の暑さをしのげるように伝統的な住居は工夫され、気候のいい折には、縁側のように内でありながら外であるような開放的な空間に居心地の良さを見出してきたのである。従って、日本の風土を建築で咀嚼・解釈し、もてなしの空間を作るなら、まず考えられていいのが、内と外の疎通ではないかと僕は思う。
					
遠景に向かって大胆に張り出したテラスは山の空気を満喫する楽園のようだ。そんなテラスの一隅に風呂が設けられている。浴槽に張られた湯に空がきれいに映り込み、それが境い目なく霧島連峰の空へと続いている。「ドレスコードは裸」などと謳われているが、確かにここなら安心して裸になれるかもしれない。この天空の風呂に身を浸すと、全身で風景の全てを堪能しているような快楽を覚える。
					
2019年に、無印良品の家として発表された「陽の家」は、コンセプト細部まで監修させていただいたものだが、この平屋の最も重要な点は、やはり内外の疎通である。広いウッドデッキを持ち、室内の床とデッキの面は段差なく真っ平らに連続している。木製ではないが、大きくて性能のいいサッシが三つ、開けた時の扉が全て壁にぴたりと収納できる仕様となっている。従って、全ての扉を開け放つと、部屋は庭のデッキとひとつながりの空間になる。
					
これは、住宅として設計したものであるが、独立型のヴィラとして展開し、ロビー・ラウンジやスパ、レストラン、カフェ・ライブラリーなどの共用部を追加すれば、自然景観を堪能できる機能的なホテルとしても十分に可能性がある。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					017
					靴脱ぎと床の切り替え 
				 
				
				
日本の習慣では、玄関で靴を脱ぎ、一段高い床に上がって室内へ入る。これは湿潤な風土において、室内空間を屋外と峻別し、屋内の清潔さを維持する工夫であると考えられる。この習慣は、縄文時代の竪穴式住居で既に生まれていたと言われる。実に一万年前からのことである。竪穴式住居は、縄文、弥生、そして平安時代まで庶民の住居として用いられていた。遺跡の発掘調査や万葉集の歌に詠まれていた暮らしの情景などから、藁や板が屋内に敷かれていたことが推定されており、泥に汚れた履物を脱いで上がる場として機能していたのではないかと考えられている。高床式の穀物倉庫も、動物の被害のみならず、泥や湿気の浸潤を避ける工夫でもあった。結果として、屋内を清浄に保つことへの意識が助長されたのではないか。この靴脱ぎの習慣が、日本人の空間に対する美意識の、大事な側面をなしているのではないかと僕は思うのである。
					国立国会図書館ウェブサイトより 
最近の日本の住居では板張りの床が増えているが、少なくなってきたとはいえ畳の間もまだ健在で、板の間で用いられる室内履きのスリッパも、畳の間に入る際には脱いでいる。この習慣には、畳の間は板の間よりも、清浄さの格が上であることが、無意識に表現されているように思う。
					あさば / 上がり框 
旅館「あさば」の場合は、暖簾をくぐって館内に入ると、そこには堂々とした上がり框が設けられていて、客は否応なくそこで靴を脱ぐことになる。しかし丁寧に用意された手すりや靴脱ぎ用の椅子、そして足置きなどが整然と配されていて、そのような心配りが来場者の気持を和らげる。靴を脱いで上がる床は、二段のステップとして設計されていて、最初に踏むのは白木の床、その次のステップは畳である。要するに空間の格の切り替えが二段階になっている。隅々まで掃除の行き届いた畳の空間が待ち受けていることによって、来場者は明らかに、より清浄な空間へと足を踏み入れたことを印象付けられる。清潔な空間へいざなわれたと感じさせることは、もてなしの端緒であり、この旅館はそれを玄関で晴れやかに実行しているのである。
					べにや無何有 
一方、「べにや無何有」の場合は、旅館ではあるがロビーや図書館などは下足の空間とし、個々の客室の上がり框に「靴脱ぎ石」とでもいうべき四角い石を配することで、内外の結界が演出されている。一段上がって足を踏み入れる床は、黒光りする木の廊下である。床の間のある座敷は畳敷きで、ベッドルームやクロークは板張り、休息用の籐椅子が並ぶ窓辺の空間は竹の床となっており、足元からさりげなく空間の転換が示唆される。床の素材で、上質な空間への導入が印象づけられたのち、室内に入った客は、室内着として用意された浴衣に着替えることで、愉楽の空間に足を踏み入れたという心理状態になる。
					べにや無何有 
ホテルの場合には、催事場や、和式以外のレストランがホテル内に存在するため、装いの一端を担う靴を、入り口で脱がせる方式は難しい。靴脱ぎをもてなしの一環として捉えるなら、べにや無何有のように客室の入り口で、ということになる。この場合、上がり框を設けるとインルームダイニングに用いられるワゴンの、室内への出入りに支障をきたすことになる。しかしながら、ワゴンに拘泥することなく、客室での食のあり方や給仕作法に工夫を凝らすことができるなら、床の段差と靴脱ぎによって、客室を清浄な快適空間として印象付けることができるはずである。
				 
			 
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					018
					安息のかたち 
				 
				
				
安息をいざなうものはなにか。例えばソファ。カウチとかカナペとか、呼び方は国や地域によって異なるようだが、柔らかい背もたれや肘掛けがあり、これにゆったりと座ったり横たわったりするととても心地がいい。椅子の文化が日本にもゆきわたり、一般の住居におけるリビングルームの主要家具といえばもはやソファになるのかもしれない。そう言う意味ではホテルにおいてもソファ、すなわち、ゆったりと腰を下ろして休む家具のあり方は重要である。ただこれについては次の課題とし、ここでは「湯が沸いていること」について触れたい。風呂のことではない、お茶を楽しむ湯が準備されていることについて。
					
テーブルには椅子が置かれてあり、客はここでデスクワークができる。今日、タブレット端末やパソコンを落ち着いて開く場所というのは案外重要で、仕事を忘れるとか、電波から逃れるなどということが、決して癒しを生むわけではない。パスワードなしでさっとネットに接続できる環境こそホテルには不可欠である。今日、仕事と休息は不可分だからである。投資家はクルーザーの上でも株価を見るし、物書きは食事に出かける前の数分で、原稿を一つ書きあげる。仕事は労働ではなく自己実現の糧であり、生きていく張りでもある。そのようなONとOFFを同時に持ち込む場所が今日のホテルなのである。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					019
					空間の多義性 
				 
				
日本の空間は自在性に富んでいると言われているが、現実の住空間はどうだろうか。布団をあげて押入れにしまうと、そこは何もない畳の間になり、そこに折りたたみ式のちゃぶ台を出して家族で食事をする。昭和の半ば過ぎまでは、庶民の暮らしぶりは確かにそうであった。したがって、日本の畳の間はベッドルームにもダイニングルームにもなると聞かされ、なるほどと思った記憶はある。しかし多くの日本人はそういう暮らしを続けることを選ばず、「nDK」、すなわちキッチンとダイニングルームを、他の多目的な部屋と機能的に区分することが習慣化され、やがてリビングルームやベッドルームを独立させる方向に進んできた。
					MUJI INFILL カタログより 
たとえば「寝る」という営みに対応する空間を考えてみるとどうだろう。「睡眠」は大事であるから、安らかに眠るための空間や機能を備えた家具が考案されてきた。欧州では「ベッド」が考案された。これは、横になると快適なクッション性のある寝床が、床から50〜60cm持ち上がった場所に設えられる装置である。ベッドにはヘッドボードという垂直板が頭の側につくことが多いが、これはおそらく、頭部を守る安心感のようなものを醸成し、また起き上がって座る時の背もたれとして機能するものであろう。寝床は体が沈み込むように柔らかいものから、敷き布団一枚程度の硬いものまで多様である。眠るという単機能に対応するなら、ベッドはとてもよくできた家具である。
					MUJI INFILL カタログより 
そんなことを考えつつ、寝る前や起きた後の営みにこたえる多義的な家具をデザインしてみた。これは部屋の壁に付けて置くベッドではなく、部屋の真ん中に独立させて置く、アイランド型のベッドで、多方向から使えるように工夫している。ヘッドボードの上は、平らなテーブル面を持ち、ベッドの方からも、その逆からもテーブルとして使える。ステップの部分には、ものを置いたり腰をかけたりもできる。布団とシーツを剥がせばソファのようにも使える。要するに多義性・多機能を持った空間が、この家具一つで出現するのである。極論すれば、狭い一部屋であっても、周囲の壁を無駄のない壁面収納にして、これを部屋の真ん中にぽつりと置くだけで、暮らしの営みにほぼ対応できる。
					MUJI INFILL カタログより 
ホテルなら、コスト・パフォーマンスが求められる都市型のビジネスホテルに利用できるし、ゆったりとしたリゾート空間に新しい寝具としてこれを置いても面白いかもしれない。先の章で紹介した水屋テーブルにはカフェや書斎の機能を併設することもでき、これ自体も多義的であるが、このベッドと合わせて使うなら、これまで見たことのない空間言語が生まれてくるのではないかと思うのだがいかがだろうか。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					020
					垂直と水平 
				 
				
人間の作る空間は垂直と水平でできている。立つ、という行為が固い平面と重力によってもたらされているからであろう。日本の建築空間は、竪穴式住居まで遡ると平面はやや丸いが、民家も寝殿造りも書院造りも数寄屋造りも柱や梁の構造は四角い。障子や襖などの内装も桟の格子や塗り縁といった輪郭線が多く、ひたすら四角い。もちろん四角いのは日本の空間に限ったことではない。モダニズム建築をリードした二巨頭、ル・コルビュジェの建築もミース・ファン・デル・ローエの建築も、例外もあるがほぼ四角い。四角は合理性から導かれるかたちなのだろうか。
					
「4」という数理に導かれるかたちはとても不安定で、自然界ではめったに発現しないそうだ。安定するのは「3」である。椅子も三脚だと安定するが、四脚になるととたんにガタガタと不安定になる。ミツバチは六角形が好きだし、蜘蛛の巣も四角いものは見たことがない。完璧な立方体をした鉱物の結晶もなくはないが非常に稀である。しかし人類は四角をとりわけ好む。これはなぜだろうか。
					
マンホールの蓋は、四角ではなく丸である。もしマンホールの蓋が四角だったら、蓋はマンホールの穴の中に落ちてしまう。だからマンホールの蓋は丸くなくてはいけない。ボールも丸くないとボールゲームは成立しない。丸についてはここで詳しくは言及しないが、同じ意味で紙は四角くなくてはならない。丸いと無駄が発生する。紙は縦横のプロポーションが1対√2の比率に設定されていて、何度折っても縦と横の比率は同じになるように設計されている。
					
写真は北京で開催されたHOUSE VISION 2018に出展した展示ハウス「Edge- Zero」である。中国の「有住」という住宅の内装会社とのコラボレーションで、僕が設計を担当したものだ。約70平米という限られた空間を、余すところなく高効率に使いきることを前提に考案したものである。壁面は全て収納にあて、家具は四方から利用できるものをアイランド型に配置する。家具に正面性を持たせないで、あらゆる方向から利用可能にすること、つまり背面をなくすことで限られた空間を効率的に活用できるのである。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					021
					隅とへり/畳・ふすま・障子 
				 
				
精緻な技巧で見るものをうならせるのも日本なら、虚をつくほどの簡素さで人々のイマジネーションを湧き立たせるのも日本である。技の巧緻や華やかさについては世界の個々の文化に、それぞれ見るべきものがあるが、一見何もない空っぽの空間を、人々の多様なイメージの受容器として機能させていく手法は、室町後期以降に形成されてきた日本独特のミニマリズムである。これについてはまた折に触れて述べるが、そういうイメージの修辞法が生きている環境であれば、人をもてなす空間言語はミニマルに極まっていることが重要である。
					俵屋旅館 
室内空間の間仕切りとして用いられるふすまも、縁の幅は決まっていて、多くの場合は塗り物、すなわち漆で仕上げられている。本格的なふすまは、内側の木の骨に、和紙が幾重にも貼り重ねられたものであり、結果として、内側からの張りがふくよかに感じられる風情となる。そして湿度とともに、ふすまは微妙にその表情を変える。晴れの日はぴんと高い緊張感を持ち、雨の日は室内の湿気を吸い、こころなしかふっくらと見える。
					俵屋旅館 
外から光がさす周囲には、光を濾過し面光源へと変容させる障子が巡らされている。和紙の白さを均等に分散するかのような格子状の桟や、障子紙の継ぎ目が、空間に小刻みなリズムを重ねている。桟のピッチや構成は実に様々であり、桟のリズムを抑えた太鼓張りという技法や、横桟を無くして縦桟のピッチを狭くしたものなど、障子の桟のリズムは多様なのだが、これらはむしろ枝葉の技巧である。要は外からの光を、和紙の繊維で濾過して淡い発光面となす点に障子の命脈はある。
					俵屋旅館 
庭は開口部によって綺麗にトリミングされた景色としてそこに立ち現れることになるが、張り出した屋根庇が上辺の位置を低く抑え込み、庭の光景は横に広く展開することになる。その際に、風景のフレーミングをさらに絶妙に調整するファクターとして、庭へと張り出す縁側と、庇から吊り下げられる簾がある。縁側と簾という「へり」が、庭のトリミングの仕上げとして機能し、単なる視覚性をこえた、不思議な空間の連続と奥行きを彩ることになる。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					022
					隅とへり/素材の境界・テクノロジーの境界 
				 
				
もうひとつ、空間の質を左右する大事なポイントがある。それは「床と壁の境目」、すなわちミニマルな空間の切れの良さを左右する境界である。
					
巾木には、板の厚み分だけ壁から飛び出させる「出巾木」と、巾木の幅はそのままに、壁の奥に巾木を引っ込ませた「入巾木」という処理の方法がある。入巾木の場合、引っ込む寸法は様々だが、そこは必ず陰翳となり、壁はその分だけ宙に浮いて見え、壁の下端がぴしりと際立つのである。
					MUJI HOTELの客室 
テクノロジーの進展で激変している今日の住環境においては、「ワイアード」つまり電気コードで繋がっている環境が当たり前である。したがって人々は、通信ケーブルや電気コード類の露出にすっかり寛容になってしまった。しかし、理想を言うなら、テクノロジーとのインターフェイスは、使いやすさを最大限に考慮しつつも、それを視界から消すほうが気持いい。技術の進化は目に見えるワイアードをなくす方向に進むと思われるが、まだしばらくは、物質的な「ワイアード」の処理を考えなくてはならない。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					023
					水と湯/火山列島の恵み 
				 
				
さて、しばらく寄りの目で細部を見すぎたかもしれない。このあたりで少し、ぐっと引いた目で日本の国土を眺めてみよう。
					Illustration : 水谷嘉孝 
二つのプレートが大陸の下に沈み込む時に、一緒に沈む水分の作用でマグマができ、海溝に平行に火山帯ができる。プレートは毎年約8㎝ずつ休みなく移動し、大陸の下に沈み込み続けていると地質学者は言う。その軋轢によって造山活動が起こり、ひずみを解消するために地震が周期的に発生する。溜まったマグマも火山から時折噴出する。百数十年という周期で大きな地震が巡ってくるのは恐ろしいが、地殻の運動によって生まれ続けている列島であるから、その運命から逃れるわけにはいかない。千数百万年という時間のなかで運動するプレートテクトニクス的な自然と、九十年にも満たない人間の寿命を比較するなら、人が生きる時間は、悠久の自然のほんの刹那に過ぎないことを思い知らされる。人智の及ばない力におののきつつも、自然の摂理を受け入れ、宇宙の瞬きの中を、「生」を自覚しつつ生きる尊厳と幸福を噛みしめていくほかはないのだ。
					Ex-fomation 皺「Complex trail—日本の川 日本の道—」内田千絵・高田明来 
一方で、急峻な山から海に向かって水が流れ出すため、国土はまるでヘチマの筋か毛細血管のような河川網で覆われている。その水質も独特である。水流が速いため、地中に染み込んで岩石に濾過される割合も少なく、カルシウム分を多く含まない軟水は、透明な無数のせせらぎとなって山を下る。澄んだ水は太陽光を川床まで通し、そのおかげで川底の石には苔が豊富に育ち、鮎や山女、岩魚といった苔を食べる川魚の生育の背景となっている。また、森林のミネラル分を多量に含んだ水が海にもたらされるので、沿岸部には多量のプランクトンが発生し、列島は素晴らしい漁場に囲まれることになった。
					
一方、火山帯の上にある列島であるから、いたるところに温泉が湧き出している。今日、日本人はこれをあたり前と感じている節もあるが、冷静に世界を見渡しても、日本と同じくらいの頻度で温泉に出会う国は少ない。プレートの配置を見るなら太平洋岸の国々、例えば南米のチリなどは、地震も火山も温泉も日本並みだと想像されるが、わざわざ地下1000mから温泉を掘り出すようなことはしていない。
					
活火山や、高い山のあるところは、プレートテクトニクス的な意味でのエネルギーのたまり場であり、スイスアルプスにも、インドネシアにも温泉は湧き出している。かつてローマ人たちは火山帯の上にあるイタリア半島の上に国を作り、壮麗な大衆浴場を建設して温浴文化を謳歌していた。これは漫画「テルマエロマエ」が、ローマ時代の温泉を、日本の温泉と対照させて展開する奇想天外なストーリーとして紹介している通りである。温泉は古来より文明社会において大事にされ、人々を癒してきた。だから日本こそ世界に冠たる温泉国と我田引水の論を構えて、その実例を多様に展開してみせようとは思わない。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					024
					ピーター・ズントーの「テルメ・ヴァルス」 
				 
				
ピーター・ズントーという建築家が、スイスのヴァルスという村に傑作の温浴施設を完成させた。1996年のことである。僕が初めてこの施設を知ったのは、デザイナーの八木保氏をサンフランシスコの仕事場に訪ねた時である。初対面の僕の眼の前に、八木氏はいきなり二冊の建築雑誌を置いた。どんなものに触発されているかを感応し合うことがデザイナーの挨拶であるかのような、出会い頭の一撃に戸惑いつつも、僕はそこに示された2つの建築に心を鷲掴みにされたのである。
					写真 : Pedro Varela / Therme Vals(https://www.flickr.com/photos/rucativava/ ) 
迷路のような空間を奥へと進んでいくうちに、行き止まりの小空間へとたどり着くのだが、それは時には天井の高い小さな礼拝堂のようだったり、黄色い花びらが無数にたゆたう別仕立ての浴室だったりする。サウナ室は黒くて重いゴムのカーテンを手で押し分けて入っていく仕様であるが、部屋の中央には人ひとりが寝られる大きさの直方体の石が置かれていて、そこに仰向けに人が寝ていたりする。サウナ室はこの繰り返しで、ゴムの扉は奥へ、また奥へと続いている。ミストで満ちた室内の明かりは天井中央からのダウンライト一灯であるから、宇宙人でも舞い降りてきそうな、ミステリアスな雰囲気であった。
					写真 : Alamy 
休憩室には、よくデザインされた美しい寝椅子が、一定の距離を置いてポツリポツリと並べられている。そのひとつに身体を横たえて正面を見ると、寝椅子が置かれているピッチで壁に小さな窓が穿たれていて、そこから屋外の景色が少し見える。スイスアルプスの山中であるから、全面をガラスにしても、素晴らしい景観が眼前に広がるはずであるが、あえて壁で風景を遮断し、薄暗い空間から小さな開口部を介して外をうかがうような設計になっている。
					写真 : fcamusd / Therme Vals,Switzerland.(https://www.flickr.com/photos/_freelance/ ) 
他方、屋外プールのような温浴空間は徹底的に開放的で、天井もなく、冬はプーサイドに雪がこんもりと積もる。プールの底からは潜望鏡のような太い金属パイプが三本、忽然と水面に顔をだし、勢いよく温水を吐き出している。ここでも滝に打たれるように、湯を思い切り浴びることができる。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					025
					あるがままの湯 
				 
				
日本の温泉宿の魅力は鄙びた味わいであるが、その要素は案外と多彩で、魅力を抽出するのは簡単ではない。しかし日本のラグジュアリーを考える上では、自然の風化をほどよく受け入れる感受性は不可欠である。これは映画のセットのように、古色をつけて味わいを付加するようなものではない。ものの冷え枯れた風情や、作り込み過ぎない簡素な味わい、そして自然の贈与を素直に受け入れるおおらかさのようなものに価値を見出していく姿勢に、日本のラグジュアリーのヒントは潜んでいる。これを茶室や庭のような、作為の果てに見出すのではなく、温泉宿のような、ゆるく無造作にみえる営みや空間に見出していくことに意義がある。
					
秋田の「鶴の湯」は、田沢湖に近い乳頭温泉郷というところにある。いい泉質の温泉宿がたくさんある場所だが、その中でも鶴の湯は傑出した存在だ。古くから湯治場だった施設を、現在の主人、佐藤和志氏が任されたのが1981年。露天風呂もない湯宿であったが、土地の魅力に感じるものがあったという。ここを管理するようになったある時、打たせ湯の小屋を潰し、改修しようと岩を少し動かしたところ岩の隙間から自然に湯が湧き出したそうだ。白く不透明な湯は温度も低めで、ゆったりと長湯を楽しめる。天然の地形に沿うように満ちた青白い湯の景観には人を惹きつけてやまない力がある。露天風呂の一部に張り出すように東屋が建てられているが、曲がりくねった材木で、急ごしらえに作られたような造作が景色に絶妙な味わいを加えている。秋田訛りで「適当に置いただけ」と佐藤氏はうそぶくが、よくできた茶室のようにさりげなく荒野の草庵を具現している。
					
古民家を移築した客室の設えは、風雅というよりむしろ粗雑ですらある。その程よい乱暴さが来訪者の心の構えを解いて楽にしてくれる。夏は草が奔放に生い茂り、冬は2メートルにも達する積雪で、宿は丸くこんもりとした雪で覆われる。その中に青白い天然の湯が幻想的に湧き出している。このような自然の発露を丸ごと宿の魅力に転換してしまうしたたかさがここにはある。露天風呂を抱く温泉宿としてこれを凌駕するものを見つけるのは簡単ではない。また、建築設計的なプロセスでこれを凌ぐものを作るのも難しいかもしれない。この宿は決して高級という分類ではなく、きわめて庶民的な位置付けで営業しているけれども、湯という天然資源を用いたラグジュアリーを考えるとき、常に頭の端に置いておくべき温泉のひとつである。
					
鹿児島の「雅叙苑」も、訪れるたびに感心させられる宿である。茅葺の古民家を移築して施設を作るさきがけとなった温泉旅館であるが、いまなおその魅力は衰えていない。後にTENKUという破格の空間を作り上げた田島健夫が1970年、実に半世紀前に作り上げた宿であるが、特筆すべきは、客室の中における温泉の構え方である。最近では個室温泉付きという仕様は当たり前になりつつあるが、ここは部屋そのものが、どこからが外でどこからが内か判別がつかないような不思議な構造になっている。鹿児島という温暖な気候のせいもあるのだろう、木製の床に、いきなり石の浴槽がどかどかっと大胆に据えられていて、その脇に丸く切り抜かれた床から樹木がにょきっと生えている。そこはもはや天井もなく、屋外なのである。室内であるのに、石造りの温泉が構えられていて、屋根のない部分もある。こうなると、屋外も屋内もない。個室温泉付き客室などでなく、客室付き露天風呂と考えた方がいいのかもしれない。だから寝たり風呂に入ったりという行為が自然に隣接してくる。ここにいると、心は徐々に原始人のように野性的になる。つまり田島健夫が提供するラグジュアリーは、人の中に眠っている野性を目覚めさせることかもしれない。人間の原感覚の覚醒に価値の源泉を見いだしていく、これは千利休も考えていなかった視点かもしれない。
					
雅叙苑では、屋内の通路や庭先に、ニンジンやこんにゃくが干されている。親子連れの鶏が人をおそれる風もなく歩き回っている。食事時になると、調理場から立ち上る煙が、狼煙のように、茅葺の屋根から外へとじわりと湧きあがる。夕食が終わる頃になると、青竹の筒でできた酒器が、囲炉裏端に刺されていて、程よく湯で割った焼酎が温められている。客はこれを自由に飲んでいい。つまり、ここには古来からの暮らしの知恵や自然の恵みが満ちているわけだが、宿の主は、そういうことを、無意識に呼び込んでいる風がある。湯のあしらい方、使い方も同じ考え方なのだろう。
					
群馬県の「法師温泉」は山岳地帯の山懐に抱かれた谷間にポツリと存在する温泉宿である。日本の山々はいかに水や湯が豊富であるかはすでに述べたが、この地も例外ではない。湧き出す源泉の上に、そのまま温浴施設が建てられている。
					
山ふところに抱かれるという言葉通りの場所で、近くにある滝を見に、宿の下駄で出かけると、知らない間にヒルが素足に吸い付いていて驚かされた。谷間はとても静かで、音と言えば流れる水の音、あるいは山全体に響いている蝉の声だけ。蝉時雨は聞こえていても不思議と静寂を感じる。ここに来るとひたすら水と湯と自然に癒される。日本における温泉の発生を原点から考える場所として、ここも記憶に留めおくひとつではないかと思う。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					026
					光る水面 
				 
				
ラグジュアリーとは何かという問いに答えるのは難しい。ランクや競争を超えた至高を追求する性向、あるいは「粋(すい)」という日本語も、いいところを突いているように思う。
					
この宿は、真ん中に自然な雑木林の庭を抱き、それを囲むように新旧の建物が並んでいるが、竹山聖はいずれの客室も、この庭に向かって開放感のある新しい和室として設計した。能登地方の珪藻土に藁スサを混ぜた壁の表情や、濃い色で簡潔に仕上げた天井、大ぶりな正方形の桟を用いた障子、そして窓近くの部屋の床に貼られた割竹など、大胆かつ緻密な和の空間がとても心地いい。これがきちんと維持管理されていて、訪れるたびに細部が磨かれていく。そんな空間に身を置くと、日常の些事にまみれて縮こまっている感覚が、解きほぐされ、洗われていくように感じる。
					
各部屋にある浴槽は、白木を用いたもので、部屋に応じて丸いものや四角いものがある。いつも感心するのは、浴槽に溢れんばかりに張られた湯である。部屋に通されて、窓の外を見ると、表面張力で膨らんだ湯が、浴槽の上面に庭の光を映して白く輝いている。大柄な自分がそこに入ると、いかにも大げさにざあざあと湯が溢れる。もったいないといえばそれまでだが、水と湯の国ならではの愉楽を感じる。どういう仕組みなのか、しばらくして浴槽を見ると、いつの間にか湯は再びすれすれに満ちている。このような贅沢は、近年の個室温泉というサービスにおいては常套的と思われるかもしれないが、継続的に生真面目に、その粋を目指そうという意志があるかないか。粋に達したものは、やがて自然に発見され、グローバルな文脈に出ていくことになる。
					
このホテルには、その境界が海や空に繋がるインフィニティ・エッジのプールがある。鏡面になったプールが静寂の光景を映し、しんと澄み渡った空気感を周囲にみなぎらせている。その完成度は秀逸であるが、決して緊張を強いる雰囲気ではない。ここにも、水あしらいとしての粋を感じた。
					
温かいサーマル・スプリングは、湧き上がる源泉の温度調節をしっかり行って、上手はほどよく温かく、下手はややぬるい。浴場の中に、東屋風の屋根のついた島のような場所があり、ここはタオル地に包まれたマットレスの床が置かれ、同じくタオル地のクッションが並んでいる。さりげなく飲料水も用意されている。湯に浸って解放された身体をバスローブに包んでここに横たえると、知らず眠りに引き込まれてしまう。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					027
					湿原と川 
				 
				
人工物ではなく、天然自然そのものを守り、それを高度な観光資源として活用していくことも、日本にとっては欠かせない視点である。最近あらためて訪ねて、確認したいくつかの地域について記しておこうと思う。
釧路湿原は、日本に残っている貴重な手つかずの自然である。6000年前、縄文人が住んでいた時代は、現在よりも温暖で水位も2〜3m高く、海であった。竪穴式住居の跡が周囲の高台にいくつも見つかっており、このあたりは暮らしやすい場所だったことがうかがわれる。やがて気温の低下に従って海水面も下降し、4000年ほど前に今の海岸線となった。内陸部は保水力の高い沼沢地で、湿原に生える葦や菅が、数千年の堆積を経て泥炭化し、広大な湿原が生まれたという。
					
塘路湖という湖からカヌーに乗って釧路川への川筋を下る。夜明け前に出発すると、霧が立ち込めた幻想的な湖面や川面の風景に出会えるが、昼間の風景もすばらしい。開発の手から守られているだけではなく、うかつに侵入すると危険な領域でもあり、そういう意味で人為の全く及んでいない自然の迫力を肌で感じる。
四万十川は、高知県西部を流れる清流である。もちろん川も綺麗だが、そこにある人々の暮らしと一体になった風景に、しみじみと考えさせられるものがある。特に注目したいのは「沈下橋」と呼ばれる橋である。
					
この沈下橋が、上流から下流まで、つまり短い橋からとても長い橋まで60あまりある。その土地の人たちの暮らしの必要から必然的に生まれてきた橋であるから言わば環境デザインである。
					
高知を拠点として活動しているデザイナー梅原真は、その点を熟知していて、高知県だけでなく日本の他の地域も啓蒙し続けている。最近では「しまんと流域農業」という言葉を掲げて、川の周辺に農地を見出して、米、野菜、茶、栗などを栽培する農業を支援するべく、四万十の農産物のブランド化を始めた。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					028
					湾と水平線 
				 
				
四万十川流域に住む人々が、沈下橋の風景に誇りを持っているなら、京都の日本海側、若狭湾の西の端にある小さな入江「伊根湾」を囲む集落の人々も、この海の風景に特別の思いを抱いて暮らしているように見える。
					
舟屋の一階は海に向かう斜面になっていて、これは船を屋内に引きあげ格納する工夫である。木製の船は腐りやすいので、こうした方法で船を家々が管理していた。二階は住居ではなく漁具を置く場所。舟屋の背後には街を一巡する細い道が走り、道を隔てて母屋がある。舟屋と母屋で一式。人々はもっぱら母屋に住んでいる。
和歌山県の紀伊半島の先にある宿「海椿葉山」は、小さくて簡素な宿であるが、水平線が完璧に見える宿として印象に残っている。水平線は、現代美術家、杉本博司が「海景」というテーマで写真を撮り続けている対象でもあるが、氏の言葉を借りれば、おそらくは原始時代において、始まりの人類の目に映じた光景とほぼ同じ光景である。岸壁にまっすぐ立って、まっすぐ前を見つめればそこには水平線がある。静かであるとも、宇宙的であるとも、原始的であるとも感じるこの光景は、見つめても見つめても見飽きない魅力を持っている。
					
遠く太平洋を望むこの立地は、交通の便を考えるとたどり着くのに骨の折れる場所である。その場所に、宿の価値を水平線一つに託して存在するかのような旅館が「海椿葉山」である。水の生かし方、使い方という意味では究極の方法で、そこに「椿」という土地の花を添えているところが心憎い。テラスには、椿の植え込みが確かにあり、海風にさらされつつ健気に赤い花を咲かせていた。客室では、女将がいけた椿が、凛と部屋を引き締めている。
日本海の伊根湾と太平洋の水平線は、同じ日本でも天と地ほどイメージの異なる海である。考えてみれば、津々浦々という言葉通り、日本の海岸線はまさに個性的な津々浦々で織り成されている。そのそれぞれに、どれだけ目を凝らし、そこに価値を見出していけるか。その辺りに高解像度の観光の未来が潜んでいる。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					029
					木綿と浴衣 
				 
				
さて、水と湯について、ひとしきり語ってきたが、ここでは少し衣服について語っておきたい。気分と服装は案外と緊密なつながりを持っている。少し反芻してみるなら、僕らは着る物によって随分と気の持ちようが変わることがわかる。暑さ寒さといったような環境変化から身体を守る機能性も、装う楽しみつまりファッションの要素も重要であるが、情緒や心理にも、衣服は大きな影響をもたらすのである。例えば、ブラック・タイで、と招待されたらここは気分をきっぱりと切り替え、ハレの場を寿ぐべく、自分という個性を潔く正装という皿に盛り付けていけばいい。これを面倒と考える向きもあるが、人生にメリハリをつける意味で、ハレという場の演出や、そのための衣服は、洋の東西あるいは南北を問わず工夫されてきた。
					
浴衣は、更衣を簡便に行うために工夫された衣服でもある。滑りのいい帯をするりと引くだけで簡単に脱げる。身体から滑り落ちるように脱げる浴衣を軽く畳んで更衣籠に放り込み、手ぬぐい一枚をもって浴場に向かうのである。この感覚は、異国からの来訪者も理解している感があり、日本の旅館に泊まっている異国からの来訪者はおおむね、浴衣を楽しんでいるようだ。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					030
					バスローブとタオル 
				 
				
心地よさを感じでもらうには、気持のいい素材を吟味しておくことが不可欠である。そしてもちろん、それだけでは足らない。それに触れる人々の五感をぴんと立たせる、つまり素材を通して触覚や嗅覚を繊細な方向に導いていくことも肝要である。なぜなら、敏感になった感覚でこそ、素材のご馳走を喜び、その快適さを深く堪能できるからである。別の言い方をするなら、吟味された素材で、利用者の感覚の目盛りをより細やかにし、官能の精度を高めていくのである。同じ綿でも、糊の利かせ方一つで、肌の感じ方は変わる。
					
バスローブの色は、素材が綿であるからどんな色にも染まるだろうが、基本は染料を用いない素材まんまの白がいい。シミひとつない白いバスローブとタオルは、極上の清潔さの保証でもあるからだ。この清潔さと白さをいかに効果的に供せるかで、顧客の感覚や身体の能動性が変わり、居心地への評価も変わる。具体的には、畳み方、置き方、掛け方、乾かし方、温め方にきちんと気が配られていて、その使い回しや使用済みの処理がスムーズに行えることが望ましい。
近年、イタリアには充実した温浴施設が誕生しており、それらの施設にローマ時代の公衆浴場の片鱗をそこはかとなく感じている。その一つは、ローマのフィウミチーノ国際空港に隣接するQCテルメローマ・スパ・アンド・リゾートという施設である。おそらくは古代の温浴施設を意識して作られたのだろう、トンネルのような暗い空間に様々な様式の風呂が分岐・点在しているかと思えば開放的なプールやジャグジーもあり、決して短時間の滞在ではなく、一日をゆったりと過ごせる工夫に満ちている。スイスのテルメ・ヴァルスが禁欲的で瞑想的な施設であるなら、こちらは逸楽的・開放的な温浴施設である。
					
ローマの施設に感心したのは、清潔で機能的なバスローブ・ハンガーが、いたるところに設置されている点であった。この施設では水着の着用が義務付けられているが、ここで快適な時間を過ごすための必需品として、バスローブとタオルがある。湯から出て休んだり、プール脇に設けられたバーやレストランで飲食したりする場合、バスローブをひとつ羽織ると公共空間に落ち着きが生まれる。人々で賑わう飲食の空間はさながらバスローブの国に来たようである。湯から上がるときに、うっかり他人のものを間違えて着用したり、自分のものを間違えて着用されてしまったりすると気分は台無しである。そんなことが起こらないように、しっかりしたスタンド式のハンガーが整備されている。このような工夫や配慮は、たしかに大事だと感心したことを記憶している。こういう小さなポイントが、ひょっとすると、ローマ時代の浴場の知恵の遺産なのかもしれない。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					031
					解放と集中を生み出すウエア 
				 
				
浴衣でもバスローブでもなく、心身にリラックスと集中を生み出す衣服というものがあるだろうか。ゆったりしたショートパンツにTシャツが一番という人が案外多いかもしれない。確かにそれを凌駕するのは簡単ではないだろう。また、アロハシャツの解放的な柄こそ心身を解放してくれるという意見も見逃せない。それも実に説得力がある。ハワイの緩んだ空気と掛け合わされるアロハシャツの柄がもたらす爽快感はたしかに素晴らしい。
					
日本の旅館では、宿泊客は浴衣か、浴衣の上に半纏をまとってダイニング施設へ赴く。それがむしろ自然で、ここで通常の衣服を着ていると、その場の雰囲気をこわしているような感じになる。しかしながらバスローブを着てレストランに行くのはマナー違反であると感じる。西洋流ではレストランでは正装かネクタイやジャケットの着用が求められる。バスローブを着てスパやプールへは移動できるが、ロビーやレストランのフロアは歩けない。このような、いわゆるドレスコードは理解できるが、そういうルールから開放されるラグジュアリーホテルもあっていいのではないか。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					032
					天然素材への感受性 
				 
				
日本の空間の情緒は、素材への気の通わせ方から生み出されている。木や紙といった軽い素材を用いて、尺貫法のグリッドを基盤として襖や障子、床や棚を華麗に展開する数寄屋や、丸太を粗く削って骨太な木組みで構成する民家がすぐに思い浮かぶかもしれない。焼き板の塀や、無数のヴァリエーションを見せる竹垣、艶やかに光る廊下や階段、そして手斧で仕上げた浅い鱗状の壁や柱の風情も記憶の中から現れてくるかもしれない。
					「数寄の家」住友林業×杉本博司  
漆喰壁の凛とした白も日本家屋の特徴かもしれない。漆喰というのは石灰の唐音に対する当て字だと言われており、要するに漆喰は石灰の粉にふのりや麻の繊維などを混ぜたもので、これで壁を仕上げると、ほんのりと湿気をはらんだ、たおやかな壁面が完成する。もちろん、もちろん漆喰で仕上げる壁は日本だけのものではないが、模様やテクスチャーをつけたりしないで、ぴしっと平面の精度を保って塗られた漆喰壁の胸のすくような心地よさは日本的である。漆喰は呼吸しているとも言われる。湿度の高い時には水分を吸収し、乾燥した時には逆に水分を発散させて、室内を一定の湿度に保つ働きがあるのだ。その作用と、しっとり、ひんやりした存在感が、心の深部を落ち着かせてくれるのかもしれない。
					「数寄の家」住友林業×杉本博司  
時代が現代に移り、コンクリートの建築が主流になっても、素材を「無垢」のままで用いる作法は引き継がれているようで、日本の建築家の用いる打放しのコンクリートは素の肌が美しい。たとえば安藤忠雄の建築は、白木のコンクリートとでも言うべきものかもしれない。打設した表面は、化粧を施さなくてもつるりと平滑に仕上がっており、様々な隙間から巧みに導かれた光が、這うようにその表面を伝って室内に呼び込まれる風情は、現代に再現された日本伝統建築の冴えである。
				 
			 
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					033
					床の間-室内における美の存在様式 
				 
				
「座敷」とは畳を敷き詰めた居室であるが、畳がモデュールを担い、襖や障子の形式が完成されてくるのと歩調を合わせるように、座敷には「床の間」という空間が生まれてきた。
					2005年 新聞広告「茶室と無印良品」より 
最も簡素な書院は慈照寺銀閣の東求堂に今日も残る「同仁斎」であり、最も豪勢なものは二条城の二の丸御殿の大広間であろう。同仁斎には床の間はないが、簡素簡潔に極まった書院と違い棚の風情は、主人であった足利義政の侘び好みを色濃く反映するものであり、茶室の原点となる美意識をも象徴している。また二条城の大広間は、絢爛たる狩野派の障壁画に囲まれ、主人の座る上段から、客の座る下段へと段差が設けられた大仰な造作で、江戸という時代の礎を築いた徳川家康の威勢を具現する趣向としてわかりやすい。
					
欧米で家に招かれると、壁一面にびっしりと、大小の額縁入りの写真がひしめいていたりする。家族の写真である場合が多いが、絵画コレクションの場合もある。いずれにしても多数のアートで壁面を埋めるが如くで、まるで何も掛かっていない壁面は許されないかのようである。確かに壮麗であり見応えもあるが、賑々しさを避け、見所を一か所に集中させるのが日本人好みである。
					
特別なステージとして設けられた床の間に、掛け物として絵画や書、そして花が、亭主のもてなしの心をこめて配されるのである。季節、絵画や書の主題、花材やその生け方、軸装の風情、花器や花台の選び方・合わせ方など、ここで展開される趣向は無数である。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					034
					生きた草木を配する 
				 
				
感じのいい旅館や飲食店で、心を動かされるもののひとつに生けられた花がある。生け方の流儀はさておき、生きた花を空間に配するには、相応の手間暇がかかり、そのような心配りを客は無意識のうちに感じとっている。空間にはなやぎを添えるならつくりものの花でも同じ効果はあるかもしれないが、生きた草木がそこにあるということは、空間をしつらえる人とその空間に深い意思の疎通があることをうかがわせ、丁寧なもてなしを受けていることを客は暗黙裏に察知するのである。
					参照: 珠寳「造化自然 銀閣慈照寺の花」(淡交社) Photo: 渞忠之 
生け花は室町の中期、足利義政の時代に東山文化とともに立ちあがった。まさに日本的な枯淡とミニマリズムの勃興期である。それは禅的な思想で花という生に向き合うものであった。華やかに植物を飾るのではなく、まず、すっくと花を立てる。当時使われていた花を立てる道具は、剣山ではなく「こみ藁」というもので、脱穀後の稲藁を干して丁寧に切り揃えて束にしたものである。これを、花材や規模に応じて束ね直して花器に据え、花や草木を挿す足元とするのである。
					JAPAN HOUSE LONDON Photo: 深尾大樹 
一方で、根のある花を切って生けるのではなく、生きた植物を丸ごとアートに仕立てるのが盆栽の世界である。生きた樹木を根ごと鉢に植え、その成長を制御しながら、幹や枝振りの妙を生み出すべく長い年月をかけて手入れをしていく芸術である。植物の命は人間の寿命よりも長いので、守り継がれてきた長寿の盆栽は400年を超えるものもある。
					青草窠 Photo: 深尾大樹 
生きた草木と、それを空間に配する日本人の精神には、上記のような関係がある。つまり、生きた花と付き合うことは、花を介して、生命や自然、そしてそれが置かれる空間に感覚を疎通させるということであり、心を尽くし、手間をかけるということである。それは決して簡単ではないけれども、実行できた時には、そこには人の心をつかんでやまない何かが生み出されているのである。日本の旅館を訪れて、そこに生けられている花を見ると、その旅館と主人の心持ちを感じるのはそういう経緯からである。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第3章 日本のラグジュアリーとは何か
					035
					清掃 
				 
				
人はなぜ掃除をするのだろうか。生きて活動するということは、環境に負荷をかけることだと、ヒトはたぶん本能的に自覚している。だとしたら、負荷を生まないように、自分たちが生きるために恵まれたこの自然を汚さないように活動すればよさそうなものだが、ヒトの想像力あるいは知力は、負荷をかけ続けた果ての地球を想像したり、数世代先の子孫の安寧に配慮したりする力がなかった。今日、僕らは目前に現れた危機、つまり浜に打ち寄せる大量のプラスチックゴミ、気候変動による農産物や水産物の収量の変化、溶ける極点の氷や氷河、潮位の変化など、近づきつつある危機の予兆を目の当たりにして、地球という資源の限界に気づき、「持続可能性」などという殺伐とした言葉を口にするようになった。文明は急ブレーキを踏み、大慌てでハンドルを切ろうとしている。確かに必要な反省であり対処であるから、これに異を唱えるつもりはない。しかし、いきなり「地球」という大テーマを口にする前に、ヒトが本来持っているはずの自然や環境への感受性について、反芻してはどうだろうか。
					無印良品 書籍「掃除 CLEANING」より Photo: 深尾大樹 
少し観察してみると、掃除とは、人為と自然のバランスを整える営みであることがわかる。未墾の大地を、自分たちに都合よく整え、都市や環境を構築する動物は人間だけだ。だから自然に対してヒトがなした環境を「人工」という。人工は心地がいいはずだが、プラスチックやコンクリートのように自然を侵食しすぎる素材が蔓延してくると、ヒトは自然を恋しがるようになる。「人工」は巨大なゴミなのではないかと気づき始めたのである。
					無印良品 書籍「掃除 CLEANING」より Photo: 深尾大樹 
こんな風に掃除のことを考えているうちに、ふと「庭」に思いが至った。庭、特に日本の庭は、「掃除」すなわち自然と人為の止揚、つまりその拮抗とバランスを表現し続けているものではないかと思ったのである。掃除はもちろん日本だけのものではないが、お茶を飲んだり、花を立てたりという行為を「茶の湯」だの「生け花」だのに仕立てるのが得意な日本である。住居まわりの環境を整える「掃除」という営みを「庭」という技芸に仕上げたのかもしれない。
					HOUSE VISION 2013 TOKYO EXHIBITION 
海外の旅を終えて日本の国際空港に降り立つときに、いつも感じることは、とてもよく掃除されているということである。空港の建築は、どこも質素で味気ないが、掃除は行き届いている。床に染みひとつないというような真新しさではなく、仮にシミができても、丹念に回復を試みた痕跡を感じる。そういう配慮が隅々に行き届いている空気感がある。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
			
				
					
第4章 『低空飛行』からの展望 
				
				
					第4章 『低空飛行』からの展望
					036
					「遊動」へ向かう世界 
				 
				
21世紀の中葉に向かって、人の移動はどうなるのだろうか。新型ウイルスの世界的蔓延を契機として、リモートワークや遠隔コミュニケーションが加速し、人々は移動しなくても充実した活動を維持できることがわかった。したがって、人の移動は減少傾向に向かうと推測する人々もいる。確かに、コロナ禍は、文明の曲がり角を示す大きな句読点だったかもしれない。増えすぎた人類や、傷めすぎた環境に対して、恒常性の維持や浄化機能のようなものが地球・自然の摂理として備わっているなら、行きすぎた人為に対して反動があってしかるべきであり、ウイルスも異常気象もひとつながりの現象かもしれない。
					
世界はグローバルに連携し始めて久しい。情報も、資源も、資金も、人も、製品も、国境を越えて流通している。一方で、世界がグローバルになればなるほど、文化的な特異性、すなわちローカルの価値が高まっていく。その土地の固有性や文化・伝統の独自性が、世界の文脈の中で輝きを強めていくのである。世界は、混ぜ合わされて均質化しグレーになっていくのではない。個別文化の固有性が、鮮明に煌めいてこそ、世界は豊かなのだということを人々は理解している。イタリア料理は地中海で、日本料理は日本列島の風土で味わうことが至上であり、タイではタイの美意識にあった建築や衣服が、インドネシアではインド太平洋に広がる数多の島々の気候に即したヴィラや音楽が輝きを放つ。人々はグローバルに移動し、地球/環境/文明の素晴らしさを、ひとつひとつの土地で味わう。「グローバル/ローカル」は対義語ではなく、一対の概念として新たな価値を生み出し始めているのだ。
					 
			 
			
			
			
			
					
			
			
				
					第4章 『低空飛行』からの展望
					037
					数字から考えてみる 
				 
				
インバウンドの伸びは、その変化を如実に反映している。2009年の訪日旅行者の数はわずかに680万人であった。それが2019年には約3200万人に達していた。わずか10年間で実に4.7倍。
					
産業的な論点でこの問題を捉えるなら、インバウンドの効果を売上高で示してみるとわかりやすい。3200万人に達した2019年の訪日外国人の消費額、つまりインバウンドの売上高は約5兆円。自動車の輸出額は約12兆円、半導体等の電子部品の輸出額が約5兆円弱であるから、インバウンド消費の規模の大きさが理解できる。2030年のインバウンドが6000万人と予測され、その売上高は10-15兆円が見込まれる。日本の産業の趨勢を考える上では見逃せない数字である。
					
製造業的産業観から脱却できない日本の産業は、この状況をうすうす知りつつも、これを看過しているように思われる。なぜなら、「精密なシステムや製造の仕組みを管理していく仕事」は得意でも、「価値を見立てていく仕事」においては、投資と回収の仕組みや、美や味、品位や風格、心地よさなどといった感覚知を的確に制御していく人材や事業運営のノウハウが、蓄積されてこなかったからである。よくできたホテルを見て、丸ごとそれを買収するような動きはあっても、ゼロからそれを組み立てることはしてこなかった。だからある意味、手をこまねいていたというよりも、手が出せないでいたと言った方が正確かもしれない。日本にも、格式のあるホテルや、伝統あるリゾートホテルはある。しかし、日本のホテルはその誕生に遡れば分かる通り「西洋文化を咀嚼する」という方向で立ち上がってきた経緯があり、日本流をもって訪日客をもてなすようには仕立てられていなかった。
				 
			 
			
					
					
					
					
			
			
				
					第4章 『低空飛行』からの展望
					038
					観光資源は未来資源 
				 
				
一般的に観光資源と言えば、「気候、風土、文化、食」をいう。そのいずれにおいても日本は非常に高い潜在力を持っている。
					
現代美術家の杉本博司は「未来素材は古材である」と語り、石や木の古材、たとえば天平時代の寺院の礎石とおぼしき石や、由緒ある神社や蔵の遺構としての木片、使用されなくなった水車の廃材などを収集・保管し、新たな建築素材として活用する「新素材研究所」を立ち上げ、活動領域を建築方面へと広げている。その着想は、空間を構成する素材の希少性や価値を、歴史や時間の堆積の中に見出す姿勢から生まれている。価値を生み出す背景の作り方として示唆に富む事例である。世界の人々に「欲しい」と言わせる価値の作り方については、その最前線で活動している現代美術家に学ぶところは大きいかもしれない。
				 
			 
			
			
			
			
			
				
					第4章 『低空飛行』からの展望
					039
					工業化時代における「和」 
				 
				
日本という国が世界の舞台にデビューして、約150年が過ぎたが、日本人は富国の資源として観光を正視したことはなかった。
					
情報過多と言われる今日、人々は何に対しても、「知ってる、知ってる」という。英語で言うと「I know! I know!」。ウイルスについても、ヨガについても、ガラパゴス諸島についても……。なぜか「知ってる」と二回いう。しかし何をどれだけ知っているのか。情報の断片に触れただけで知っているつもりになっているように見える。だから今日、効果的なコミュニケーションは、情報を与えることではなく、「いかに知らないかを分からせる」ことである。既知の領域から未知の領域に対象を引き出すこと。これができれば人々の興味は自ずと起動してくるのである。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第4章 『低空飛行』からの展望
					040
					「JAPAN HOUSE」の経験から 
				 
				
僕は2015年から2019年まで、外務省「JAPAN HOUSE」プロジェクトに総合プロデューサーとして関わった。これは、世界の人々に日本への興味と共感を持ってもらうべく、サンパウロ、ロスアンジェルス、ロンドンの三都市に設けられた、日本の文化情報の発信拠点である。準備期間を経て各拠点は、2017年から18年にかけて次々とオープンした。それぞれ、隈研吾、名和晃平、片山正通が考え抜いた会場設計を手がけ、「日本を知る衝撃を世界へ」という考え方を基軸に活動が展開されている。企画・構想の原則として、類型的な日本紹介は排し、物販、展覧会、食、ライブラリー、パフォーマンスなどのスペースを吟味して設け、ゆるいお国自慢や、安易なジャパネスクを慎重に避けた運営方針を展開している。
					JAPAN HOUSE LONDON 
物販スペースには、売れ筋の商品ではなく、見せたい水準の工芸品やハイテク製品を置き、高解像度の映像を相応しい場所に配し、その用い方などを伝えている。例えば、茶筒から茶葉を茶箕ですくって急須に入れ、ポットでお湯を注ぐ。これを順番に湯呑みに注いで茶托に載せ、それを盆に載せて運んで、供する。これらごく普通の一連の所作は、異国の人々にとっては実に新鮮であり、これを見て初めて、茶筒、急須、茶箕、茶葉、湯呑み、茶托、盆といった製品への興味が起動するのである。また、大根おろし、鬼おろし、生姜おろし、山葵おろし……といった「おろし器具一式」を商品として並べるのみならず、それらを実際におろす所作を動画で見せることで、これらの器具が輝いて見えるのである。
					
実際、JAPAN HOUSEの来場者数は、予想を遥かに上回って推移し続け、サンパウロでは文化発信拠点として既に圧倒的な存在感を示し、ロンドンも、高級品を販売するショップや魅力的な展覧会を催すギャラリーとして、なくてはならない存在へと成長している。
				 
			 
			
			
			
			
				
					第4章 『低空飛行』からの展望
					041
					「低空飛行」異次元の観光へ 
				 
				
遊動の21世紀中葉に向けて、日本にとっての課題は、列島の魅力を損なうことなく引き出し、蓄えられてきた文化や伝統を、懐古趣味に陥らないように、未来感覚で運用していくことである。これは実に心躍る課題ではないか。
					
日本を歩き回って思うことは、やはり自然の相貌の多様性である。一つとして同じ海はなく、一つとして同じ山はない。日本列島は「半島」や「山」、「湖」という果実がたわわに実っている樹木のような存在である。本州は幹で、九州、四国、北海道はたくましい枝である。そこに実っているいずれの半島も山も湖も、本当に一つとして同じものはない。雪を抱いて厳しくそそり立つもの、深い森や水源を抱くもの、霧に包まれた湿原、澄みわたった波が打ち寄せる砂浜、岩の露出が絶景をなすもの、サンゴ礁が幾重にも取り巻くもの……。島もまた同じである。瀬戸内海という内海は、地域文化を繋ぐ媒体のような水域であるが、そこには七百を超える島々が点在している。それらは大きさも、暮らしも、農産物も、海産物も、潮や風も、人々の想像を遥かに超えて多様なのである。そのそれぞれの環境に、個別の豊かさと魅力が潜んでいる。
					 
			 
			
			
			
			
				
				
そんな自分の仮想・構想の例をひとつご紹介しよう。それは『半島航空』と名付けたプロジェクトである。
					 
			 
			
			
			
			
			
			
				
					第五章 移動という愉楽
					043
					「衣・食・住・行」 
				 
				
香港のデザイナー、アラン・チャンと「衣・食・住」に次ぐ四番目の要素は何かと話していたとき、氏は「行」ではないかと言った。香港は狭いので、香港人はどこか別の場所に行くことを本能的に快楽だと思っているという話であった。自分がどう答えたかは定かではないので、「休」とか「創」とか、あまりかんばしい答えが出せなかったのだと思う。しかし「行」はなるほどと思った。香港人でなくても人は常に移動に憧れている。
					
				 
			 
			
			
			
			
			
				
				
旅客機はこの40年ほどあまり変わっていない。かつてはコンコルドという美しく速い飛行機があった。これには一度だけ乗ったことがある。ロンドンでブッキングのトラブルがあり、「コンコルドはいかがですか? ニューヨークに5時間早く到着できて、夕食は向こうで食べられます」と言われて、僕は「イエス!」と思わず三回言った。
					SKY TREK 
この経験を経たとある夏の日、たまたま郷里にいた僕は、母親の誕生日にセスナの遊覧飛行を提案した。母親はやや渋ったが、それを隣で聞いていた祖母の目が一瞬輝いたせいもあり、三世代搭乗の遊覧飛行が実現した。岡山の岡南飛行場発着の一時間弱の飛行であったが、料金もリーズナブルで、内容もとても充実していた。瀬戸内海の島々はもちろん、自分たちの住んでいる街や卒業した学校などが模型のように見える。ただの海山ではなく、よく見知った場所を上空から俯瞰するのは痛快である。自分の家の上空は二回、旋回してもらったが、生まれ育った地域の道や川、後楽園や岡山城など、空から眺める故郷はせつなくいとしい。九○歳を超えていた祖母は飛行そのものが初めてであったが、酔いもせず景色を堪能していた。
				 
			 
			
			
			
			
			
			
				
				
僕は自動車の運転免許を持っていない。したがって、ドライバーの立場からクルマを語ることはできない。しかし、自動運転を論じるならこの立場はむしろ利用価値がある。そして本当に自動運転社会が実現したなら、その時こそ免許を取得しようかと密やかに思っている。
					クルマの歴史的変遷を表した概念図  
			 
			
			
			
			
			
				
				
日本の新幹線から「食堂車」がなくなってしまったのは実に残念だ。出張帰りに、仕事仲間と食堂車で酒など飲みながら語らうひと時には、不思議な充実感があった。食堂車の料理がことさら美味しかったわけではない。おそらくは同じ景色や料理を味わいつつ移動しているという連帯感のようなものが楽しさの背景にあったのだろう。最近は多様なサービスを満載した特別仕立ての列車を走らせている鉄道会社もあるが、この試みは列車の旅の重要な部分と危険な部分の双方に触れている。つまり、列車の旅の愉楽の潜在性と、過剰な豪遊がもたらす社会モラルの失墜という二つの側面に関係している。
				 
			 
			
			
			
			
				
				
日本はフェリーが発達している。クルマごと乗船できる船である。瀬戸大橋のようなハイテクによる大橋梁ができるまでは、フェリーは道路の一部と考えられていて、岡山県宇野と香川県高松を結ぶ本四連絡船は「宇高国道フェリー」「本四フェリー」等という名称であった。少しずつ改善が重ねられ、使い勝手も良かった。客室にこもらず、デッキに出て島々をわたる風に吹かれると爽快な気分になった。
					Entô 客室から見た風景 
また、日本の海は本当に多様で、隠岐諸島周辺の島々には砂浜は見当たらず、火成岩の隆起を想像させる岩肌の荒々しさが印象的である。こうした「海景」の個性は、間違いなく日本の観光資源であるが、いまひとつ注文を出すなら、船独特のエンジン音と振動に工夫が欲しい。瀬戸内を航行する客船旅館「GUNTU」は、電気によるモーターの駆動で動くのでとても静かである。電気によって動く静かなフェリーが、海に囲まれた列島の、ゆったりした移動を担うようになると、おそらくは世界中の物見高い人たちは稀有なる海景群を船で体験するために、この列島を訪れたくなるのではないかと思うのである。「GUNTU」は静かな瀬戸内海を航行するために船底をフラットに設計してあるらしいが、日本の津々浦々の風光や海景を堪能するための宿泊機能を持った船も、その乗り心地、泊まり心地を磨き上げていけば、新しい船の文化が開花していきそうである。
				 
			 
			
			
			
			
				
					第五章 移動という愉楽
					048
					瀬戸内デザイン会議 
				 
				
地域の風土や環境を力に変えるホテルの構想や、国際的な顧客の動向を丁寧に分析した計画のもとで「資源」を見据え、それを「価値」へと転換していけばいい。そういうヴィジョンを共有する事業主が、互いに連携・協力することが肝要であり、そうすることで相互の価値が掛け算のように飛躍するのである。ホテルは風土や文化を可視化あるいは価値化する事業であり、移動は点と点に血を通わせ、そのプロセスを活発な市場へと脈動させる事業である。同様のヴィジョンや展望を共有できる事業主たちが、信頼をもってアイコンタクトし協働できれば、次々と新次元の実りを体現することになるだろう。21世紀のデザインはそういう文脈で仕事をしたい。
					『この旅館をどう立て直すか 瀬戸内デザイン会議−1 2021 宮島篇』(2022年4月13日発売)