観光の解像度
第1章 アジアに目を凝らす
第1章 アジアに目を凝らす
001
ホテルとはなにか
世界の風土の魅力に目を凝らそうとすると、その先に忽然と現れてくるものがある。ホテルである。それはなぜか。素晴らしくよくできたホテルは、その土地の最良の解釈であり、咀嚼された風土そのものだからである。
しかしなぜ自然そのものを見つめないのか。たとえば日本列島に目を凝らすなら、美しい山河を取り上げて、その魅力を語り連ねていけばいいはずだ。海底が隆起して陸となった火山列島であるから、土地は急峻で川や滝も多い。季節も多様で、その変化も豊かである。語るべきものは尽きない。しかしながら、誤解を恐れずに言うなら、自然は世界のどこにでもある。
ある風土や環境において、僕らが本当に感動するのは、その土地に昔から人々が生きて来た痕跡と、連綿と受け継がれて来た知恵の産物が、見事にかたちを成しているのを目にする時である。具体的には、集落や民家の連なりに、その土地固有の工夫や知恵、そして美意識が凝縮していると感じる。それは自然の中に慎ましく、そして粘り強く、人が人として生き抜いて来た矜持を、そこに感じるからだろう。
屋根の素材、勾配、瓦のかたち、軒や庇の深さ、入り口の構造や窓の大きさ、そんなものから、その土地の暑さ、寒さを、さらに言えば、その風土に生きる知恵の多くを感じることができる。それらは、生きられた結果であり、連綿と繋がって来た生の産物である。僕たち人間は、住居を作り、庭をしつらえ、汚し、また掃除をして生きている。そういう生命のあり方をしている。だから無垢の自然そのものよりも、それとどう関わり続けて来たかを見ることに感動するのである。
しかしながら、テクノロジーの普及と同時に、世界は均質化に向かっている。残念なことだが、利便性と効率は、幾百年と積み上げられて来た暮らしのかたちを簡単に変容させてしまう。伝統をとるか、利便性をとるかはそれぞれの土地に住まう人々が選択していくことになるだろうが、必ずしも望ましい方向には向かわないようだ。
利便は限られた富裕層のものではない。人々はますます都市に集まり、過疎の集落はますます廃れ、利便はいびつな形で田舎を蝕む。夥しいプラスチックゴミが孤島の海岸を覆い尽くすように、かつて築かれてきた、暮らしの誇りも、過疎化や民家の退廃とともに、崩れ去ろうとしている。
一方で、世界は「遊動の時代」を迎えている。その土地に住まう人のみならず、その土地の素晴らしさを味わうために、人々は動き始めている。働き方が変わり、幸福のかたちが変わり、インテリジェンスの向かう先も変わってきた。おそらくは、グローバルな時代にあって、人類がまだ知性を保ち、生きてこの地球の恵みを味わう誇りを失わないなら、その興味は、環境の維持と、世界各地にある、その土地ならではの文化的価値へと移っていくはずである。そしてその萌芽はすでに見え始めている。
ホテルは今日、人の移動を支えるために、ひと夜を安全に過ごし、安眠と体力の回復を支えるのみの存在ではない。むしろその土地に潜在している自然を咀嚼し、解釈し、建築を通して鮮明かつ印象的に来場者にそれを表現する装置である。またその土地に産する食の恵みを見事に収穫し、成果として差し出してくれるサービスでもある。
高原の風の心地よさに気づくのも、海辺の静けさを再認識するのも、光というものが土地土地によっていかに違うかを知るのも、ホテルという、考え抜かれた施設と仕組みを通してであることが少なくない。そしてホテルを通して、その土地を表現し、来訪者をもてなすことが、経済を生み出すと同時に、土地に住まう喜びを蘇らせてくれるかもしれない。
人は故郷の山河に特別な思いがある。郷土の料理は他のどこの土地の料理よりも美味しいと感じてしまう。もちろん、母なる故郷への思いは特別であっていい。しかし少し冷静に考え、その土地の魅力を世界の人々に向けて表現しようとするなら、お国自慢や強すぎる郷土愛はむしろ控えたほうがいいかもしれない。
一方、旅する人の心理は、自分に降りかかってくる幸運を疑うことなく受け入れようとする。だから身びいきのお国自慢にもつい耳を傾けるし、そういう場所を訪れた幸運を喜び、その土地の食や産物を土産として持ち帰りたくなる。多くの名所や名物はこのようにできてきたのかもしれない。
しかし「観光」の可能性を、未来を担う「産業」として考えた場合、これまでとは異なる解像度や客観性を踏まえて、その土地を理解・表現していく知のあり方として捉え直していく必要があるのではないか。なぜなら、観光こそ21世紀最大の産業と考えられるからである。日本という国は、製造業で戦後復興をなし、高度成長を果たして、経済大国へと上り詰めた。しかし物語の第一章はすでに終焉を迎えたようだ。そして自らの伝統文化や風土を資源とする、次の章がすでに始まっている。そんなふうに思うのである。
第1章 アジアに目を凝らす
002
ジェフリー・バワとその建築
建築家のフランク・ロイド・ライトは、自然の美しさが景観として印象づけられるのは、人工物としての建築がそこにあるからだと語っていた。確かに、自然があるだけでは、その美しさは立ち上がって来ない。そこに人為の象徴である建築を対置させることで、味わうべき自然が立ち上がってくる。氏の代表作のひとつ「落水荘」は滝を跨いで作られた住宅である。建築を設けることで、ただそこに滝がある以上に自然が際立ってくる。
今、この原稿を書いているのは、スリランカのど真ん中、ダンブッラという街の近くの「ヘリタンス・カンダラマ」というホテルである。ホテルの設計は、スリランカを代表する建築家、ジェフリー・バワである。土地の文化や環境を生かしたホテルづくりで知られるアマン・リゾーツに影響を及ぼした人物として、近年、注目を集めて来た建築家である。
その作風は、建築を周囲の自然環境を解釈するものとしてとらえ、光や風、そして風景を味わう装置に仕上げる点に特徴がある。決して造形や構造で、時代の風を切って進むような建築ではない。しかし、この建築を通して差し出されるスリランカの風土は、なんと素晴らしいことか。ホテルを、自然や土地の恵みを解釈し、差し出す装置として捉えるなら、その格好の事例となるのが、氏の仕事であろう。
ジェフェリー・バワは、スリランカの富裕な家の次男として生まれ、両親を比較的早くに亡くしているが、親族の支えによって英国のケンブリッジ大学に留学している。したがって比較的早くから西欧とアジアの文化的複眼性を持っていたと想像される。イタリアが好きで、生涯をここで過ごしたいと考えるほどだったとも言われている。ロールスロイスを駆って世界を旅したそうで、貧乏なバックパッカーではなかったようだ。
スリランカの自分たちの家を改装した経緯から、従姉妹から建築家になることを勧められ、31歳で再び英国のAAスクールに入りなおし、建築を学びなおしている。1956年、37歳でスリランカに帰り、建築家としての仕事を始めるが、決して多作とは言えないその仕事には、当初より自然と建築との不可分な関係が描かれている。
「ヘリタンス・カンダラマ」はそのひとつである。眼前に見えるのは、農業用水を得るために作られた広大な貯水湖で、湖を望む高台の岩盤に寄り添うようにこのホテルは建っている。湖に張り出すようにプールが設けられていて、プールの縁が水面すれすれにあるため「縁のない」ように見える水辺が遠くの湖面へとつながっている。プールの人工的な直線が、有機的な自然に貫入することで、来訪者はより印象的に自然を感じることができる。また岩盤を、意図的に建築内部に侵襲させており、ホテルを歩く来訪者は、常に岩肌という素材の持つ野生に触れ続けるのである。赤道に近い熱帯なので、植物も旺盛に繁茂し、鉄とコンクリートでできた建物の大半は、多肉系の植物に覆われているように見える。だから、来場者は、自然と渾然となった建築の全容を知ることが難しい。
朝、日が昇る前後の時間に、建物の中を歩いてみた。日の出前後は、最高の静けさと繊細な光をたたえる特別な時間帯だ。このホテルの建築も、あらゆる空間が、生まれ出る光に神々しく感応していく。鏡面のようなプールがほんのり赤らんだ空を映し、さざなみの立つ湖の遠景と素晴らしいコントラストをなしている。差し始めた低い光が、木漏れ日を白壁に映し始める。階段の手すりを支える縦棧は華奢で、明澄な光によって、その影が床に細く長く落ちる。
バワが使用していたとされるデスクと椅子が、外階段の踊り場の一角に、湖を望むように配されており、そこに座ると、自ずとはるか遠くに続く風景を眺めることになる。低い光によって立体的に息づいてくる熱帯雨林が建築によってフレーミングされた光景。この建築家が誇らしく思っていたはずの、この土地の豊かさを、まるで建築家と同じ心持ちで感じているような気分になる。
レストランでは、朝の光の中で朝食の準備が始まっている。スリランカ・カレーの豊饒、鮮度のよい野菜と輝くばかりの果物、そして力強く香ばしいセイロン・ティーの香りが立ち込めてくる。かつて東インド会社が跋扈し、英国が幅を利かせた土地であるが、その歴史と文化を全て飲み込み、咀嚼して、この地を訪れる人々に風土の賜物として丁寧に差し出してくれているかのようだ。
自然のままではなく、人為を介入させることで、自然をむしろ際立たせ、その場を訪れる人々に、その土地の歴史や文化とともに見事に収穫して見せる。つまり、ホテルは、それが建つ風土や伝統、食の最良の解釈と考えられる。
それは、その土地に生を受けた人間として、自然と対峙する誇りを生み出す営みである。おそらく、日本が次の章へと歩みを進めるとするならば、自らの国土や風土を、あらためて、解釈し直していくことが必要なのではないか。遊動の時代を迎えて、どこの国でも来訪者の数は増えている。決して日本に限った現象ではない。これをどう受けとめ、自国の風土や歴史・文化をどのような解釈として差し出せるか。その出来栄えが、21世紀の国々の、豊かさの趨勢を左右することになるのではないかと思うのである。
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003
植民地支配の後に生み出されたもの
ジェフリー・バワの建築に注目し、旅の最終目的地たるホテルのかたちを、世界に問える完成度で作り上げた人物がいる。アマン・リゾーツの創始者、エイドリアン・ゼッカである。ジャワ島出身で、父方に東インド会社の事業に従事していたオランダ人の血脈を持つこの人物は、バワと同じく、西洋がアジアを見る目を心得ていたと同時に、資本の論理の限界とローカル文化の潜在力に同時に気がついていた。植民地支配が終わり、スカルノ政権時のインドネシアでは、旧地主の土地は国有化され、支配層としての資産や地歩を失った氏は、シンガポールに拠点を移し、アジアの美術や旅行をテーマとする雑誌でジャーナリストとして腕を振るっている。植民地を背景とする特殊な生い立ちや経歴は、世界の富裕層のライフスタイルや嗜好を、自らのビジネス感覚に染み込ませていたはずである。
歴史が示す通り東南アジアはポルトガル、スペイン、そしてオランダ、英国、フランス、米国の植民地であった。アジアの香辛料や上質な紅茶、大麻など、本国では得られない特産品や安価な労働力、国家としての統率力が弱く文明的に前近代の領域が広大に広がる場所は、資本主義にとっては格好のフロンティアであった。大航海時代にいち早く世界を探索し、そのフロンティアとしての潜在力を存分に把握していた西洋列強は、力ずくで競い合うように東南アジアを植民地としたのである。当時の西洋人がこの状況をどのように捉えていたのかは、今日に残る植民地時代の文化遺産を眺めればよくわかる。
人類史の中で、アジアはむしろ世界の文明をリードしていたはずだが、近代化の機運はひととき西に傾き、西洋に市民革命が起こり、市民社会や資本主義がいち早く立ち上がった。蒸気機関の発明に象徴される産業革命も期を同じくして欧州に沸き起こり、たちまち文明は西高東低の様相となり、優位を獲得した西洋文明が世界を席巻したのである。市民革命や資本主義がなぜ東洋で起こらず、西洋が先行したかというのは、歴史の不可思議なところであるが、この事実によって、西洋文明は、明らかな優位性を持って、アジアの文化を侵食したのである。
西洋人は、当時の彼らの目から見て新奇に映ったアジアの様式を、異国情緒として尊重することはあっても、それらを基幹に据えることはなく、自国の様式を、あらゆる場所に優先した。植民地時代の建築は折衷様式であると言われるが、基調は西洋式であり、家具、調度、衣服なども、あたう限り西洋式を現地化したものである。南米アマゾンの熱帯雨林の奥地にまで、オペラハウスを持ち込む西洋人であるから、この徹底ぶりはある意味では見事であった。
自国の文明から遠く隔たったアジアの異界に、そこから産み出される富を背景に、贅を極めた居住空間や食の愉楽を持ち込み、資本主義の春を謳歌した。その滴るような富への欲望が植民地文化を特別なものに作り上げた。人間の欲望が文化を前へ前へと進める力であるなら、植民地は、むしろ本国よりも絢爛に花咲いた西洋文明の理想郷だったのかもしれない。おそらくは、自国に閉じていただけでは生み出せない、度を超えた贅沢、王侯貴族が生み出した権威とは異なる異国情緒をスパイスとする栄華のかたちが植民地に溢れていた。
現地人に自国のマナーを教え込み、白い制服を身だしなみよく着せて、熱帯の異界の、素晴らしくよくできたホテルやレストランに侍らせ、白いテーブルクロスのかかったダイニングテーブルで、極上のワインを注いでもらう。そんな光景は今日でも時々、映画で目にする。あたかも文明から遠い異界であるほどに贅はその輝きを増すかのように。
東南アジアの国々は、太平洋戦争の終結を機に、植民地支配を逃れ、独立していくわけで、ジェフリー・バワとエイドリアン・ゼッカは、それぞれの祖国が植民地支配から自立していく時期に、青年期あるいは少年期を迎えている。当時のスリランカやインドネシアで、ジェフリー・バワやエイドリアン・ゼッカが見ていたものはなんだったのか。それはまさに植民地支配を、逆の透視図で眺める、アジアの風土や文化の、めくるめく可能性そのものではなかっただろうか。
第1章 アジアに目を凝らす
004
ジ・オベロイ・バリ
僕が初めてホテルの存在に胸がときめいたのはバリ島のホテル、オベロイであった。二十代も後半の頃である。二十歳の頃、バックパックを背負って2ヶ月ほど欧州やアフリカ北岸、インド、パキスタンなどを放浪したことがあったが、リゾートのような場所にはとんと縁がなかった。ある時、ふと思い立って休暇をとり、家内と出かけたのがバリ島であった。その時に泊まっていたのはクタという地域の海岸沿いのホテルだったが、ダイニングの雰囲気がいいと勧められた隣のホテルに夕食を食べに出かけた。
隣といっても、リゾートホテルの敷地は広く、日もどっぷりと暮れていたのでホテルの勧めに応じてタクシーで出かけた。指定した場所に降ろされたが、あたりは真っ暗で、ホテルらしきものは見当たらない。あるのは、恐ろしげな形相をしたバリの彫刻がぽつりと一対、暗闇の中に浮かび上がっているだけである。下からのライトアップで迫力満点に目を剥くバリ彫刻が示しているのが、どうやらホテルの入り口らしい。そこから下方に階段が続いている。タクシーも走り去り、夜の異界に放置された状況ではここを降りるしかない。
恐る恐る階段を下ると、巨大なドアの前に出る。立派な装飾のついた、人が通るには大きすぎるドアである。流れの中ではもはやドアを開けるしかない。すると、思ったより広い、緻密かつシックなバリ装飾が壁面に施されたホールに出た。かなり場違いな所に来てしまったと、身の縮む思いがし、地に足のついていない感じが自分でもわかった。さらにそこから屋外に出で、ダイニングの前のウエイティング・バーへと案内されるのであるが、その屋外の光景が今でも忘れられない。
浜辺へと降りつつ、幅広の階段が奥へ奥へと続いているのであるが、踏み板一段ずつの両端に一つずつ、蝋燭の灯りが置かれている。それがずっと、敷地の果てまで、めくるめくうねりを伴って続いていたのである。そのシーンに、僕は鳥肌が立つような感動を覚えた。
おそらく、旅に次ぐ旅を重ねてきた今の自分が、同じ場所に立つなら、さしたる感動を覚えないかもしれないし、三十年以上の月日を経て、新しいリゾートホテルがしのぎを削るバリ島にあっては、ジ・オベロイ・バリの存在感もかわっているだろうと思う。しかし、まるで、初めてコーラを飲む少年が、弾ける微細な飛沫の刺激で目をしばたかせるように、オランダ植民地時代の贅沢の名残を色濃く留めたホテルの様相からうけた衝撃を、いつまでも感覚のどこかに留め置きたいと思う。そしておそらくは、その時の鳥肌の立つ感慨は、やはり一生忘れないと思うのだ。
ウエイティング・バーで、ココナッツの実をくりぬいた入れ物に入った、甘美なカクテルを飲まされ、ああ、リゾートとはこういうものかとしみじみ感じ入った次第である。
文化は不思議なものだ。植民地というものが、仮に資本主義による搾取の歴史であるとしても、植民地が醸成した文化は、その統治が終わっても容易にその土地からは消え去らない。不平等な環境で利益を一方的に収奪される歴史があったとしても、そこに生み出された愉楽は、それを享受した側のみならず、「贅」を差し出している側にも強い影響を残す。それはおそらく、そこに昔からある風土の魅力やローカルの文化が、グローバルな文脈に差し出すことのできる豊穣、つまり価値の鉱脈として探し当てられた実感を、ローカルの人々の心の中に残すからかもしれない。
外からやってきた強い力や、風土をほしいままに貪る異文化の建築が林立しようとも、そこに顕現する価値が、その土地独自の文化や環境に根ざすものであれば、それは誇りとして、その土地の人々に受け継がれていくのだろう。
アマン・リゾーツが初期にホテルを展開したバリ島には、そういう空気が今も濃厚に漂っている。欧米資本による高級リゾートホテルは相変わらず現地の風土や情緒を、顧客に差し出すあざとい工夫に余念がないが、エイドリアン・ゼッカは確信していたに違いない。その土地の美点とマーケットを知り尽くした側が、妥協のない品質でホテルを構想すると、どういうことが起こるかということを。
第1章 アジアに目を凝らす
005
もしも中国が大航海時代を制していたら
歴史に「もしも」はないという。確かに歴史は事実を重んじる学問であり、軽率な仮定は持ち込めないからだろう。しかし、僕は歴史学者ではない。未来を考える上で、歴史を糧にするなら、ふんだんに「もしも」を設定し、素朴な問いを発していくことでむしろ史実のリアリティをつかんでみたいと思う。また、そこから未来のストーリーを構想してみたいとも思うのだ。
だからここで仮説をひとつ。もしも、アジアあるいは中国が大航海時代を制し、西洋に先んじて産業革命をなしとげていたとしたら、世界の様相はどんな風に変わっていただろうか。
写真:akg-images/アフロ 大航海時代の海図。欧州からインドへの航海の情熱が偲ばれる。『カンティーノ天面天球図』(1502)
たとえば、宋代の中国は、あらゆる意味において文明の先端にあった。紙の発明は漢の時代、紀元の前後の話であるが、書物として蓄えられた知を整理・体系化し、厳密な管理体制のもとでこれを刊行・流通させ、血筋や家柄によらず、知にアクセスできる環境を整えていたという点で、宋代の中国は抜きん出ていた。校閲や彫版印刷も緻密に組織化されて行われており、書物の印刷と流布に関しては世界のどこよりも質・量ともに充実していた。こうした状況を背景として科挙という試験制度に磨きをかけることで、抜きん出た頭脳や才能を官僚として登用することができたわけである。当時の国力とは、合理的な行・財政管理能力と武力を総合したものであるから、この時代の中国を凌駕する文明が簡単に出現するとは思われないほどに、制度の洗練度が突出していた。欧州はまだ印刷も書物の流通もない暗黒の中世であった。この時代に、もしも中国が海洋進出に興味を持っていたらどうだっただろう。羅針盤すなわち方位磁石はすでに中国で発明されており、宋代では航海にも用いられていたはずだ。
しかしながら、宋王朝は、北方の金に、そして蒙古にあっけなく滅ぼされてしまうのである。かわって中国の地をおさめた元王朝の時代には、日本にも二度、大船団を派遣している。またベトナムやジャワにも軍事遠征を行っており、勢力の拡大に意欲があったことをうかがわせるが、いずれも成功していない。元代にあっては、中国は属国の一つに過ぎず、制度は維持されたが大きな発展はなかった。ユーラシアははてしなく大きな大陸であり、ここに巨大な版図を得た元王朝は、内憂外患も数知れず、そこを守っていくのが精一杯だったのかもしれない。元は百年を待たないで力を失っていく。
ところが次の明代、特に永楽帝の時代には、海洋進出にとても熱が入るのである。皇帝の命によって、鄭和という武将が、大艦隊を率いて1405年から1433年まで、実に7回にわたって大航海を果たしている。鄭和という人物は、艦隊の統率者としてほぼその人生の全てを航海に投じている。艦隊の編成は240隻、2万7千人もの規模で、『明史』には、最大の船は全長137m、幅56m、重量8000t(ウィキペディア『鄭和』より)という巨大なものであったと記録されている。
提供:Science Photo Library/アフロ 明代、中国艦隊の図。鄭和に率いられた大艦隊は1405-1433年の間に、インド洋及び東南アジア沿岸を7回にわたって訪れ、一部はアフリカ東岸に達していた。
コロンブスの船団が約100人、船の大きさも6分の1程度であることを考えると、明の船団の規模は凄まじい。この船団はインド洋やアラビア海の諸国を訪れ、インドのカリカットへの到達は1498年のバスコ・ダ・ガマの到達よりも90年以上早い。そして4度目の航海では船団の一部はアフリカ東岸、現在のケニヤあたりまで到達したという。
ただ、明王朝の航海は、王朝の威光を遠方の国々にまで知らしめ、明に朝貢させるのが目的だったようで、略奪や直接統治を目指してはいなかった。この場合の朝貢とは、王朝の徳を敬い、貢物を捧げる国交関係をいう。植民地化や内政干渉を行うのではなく、そこにある体制のままに、宗主国に礼を尽くす序列関係を構築しようとする中華思想の現れである。朝貢によって貢物がもたらされた場合、宗主国である明は、回賜すなわち返礼品を、貢物の数倍から数十倍、持たせて帰したと言われている。したがって貿易で利を得るための航海ではなかったようだ。むしろ、回賜が追いつかず、朝貢制限を行ったというから微笑ましい。中華の面目を保つのも大変だったのだろう。したがって、明代の鄭和の大航海は、威厳と節度をもった海洋進出だったと言えるかもしれない。持ち帰ったものも、諸国の珍宝や「麒麟」「ライオン」「ダチョウ」「シマウマ」などの珍獣が記録されているそうで、その成果も微笑ましい。
漢籍からの写しと言われている麒麟の図(19世紀)。EXPO 2005 AICHIカレンダー『高木春山/本草圖説』(2000)より部分。撮影:藤井保
大航海時代をリードしたポルトガルやスペインの場合は、オスマン・トルコによって地中海の交易を支配・制限され、海洋交易を他の海に求めざるを得なくなった両国が、王命で荒くれ者たちに一攫千金を奨励し、命がけの航海と引き換えに富と名声の獲得を許容した海洋進出であった。つまり国益を得るための大胆不敵なギャンブルであった。寄港先や食料補給地の確保など、進出への準備も、未知なる航路の開拓も、真剣勝負である。いきおいその方法は乱暴であることをまぬがれなかったと想像される。
もしも中国が、鄭和の跡を継ぐように、大船団による航海を重ねて、ついにはアフリカ最南端の喜望峰を越えるようなことがあったとしたら、どうだっただろう。そして明の大船団が、コロンブスよりも先にアメリカ大陸を発見し、マゼランの船団より先に、世界一周の航海を果たし、地球が丸いことを証明したとしたら、どんな世界になっていただろうか。
中華思想は基本的に居丈高であるが、必ずしも破壊的ではなかった。したがってインカ帝国も、マヤ文明も、アステカ王国も、中国に朝貢は求められただろうが、滅ぼされることはなかったかもしれないのである。
そしてもしも、明あるいは清王朝の時代に、産業革命が中国にもたらされていたとしたら、どうであっただろうか。世界のワインは、中国が欧州に展開する専売会社のもとで、おびただしい漢字がラベルに躍っている状況すらあったかもしれない。
現実に中国は大航海時代を制することはなかった。明でも清でも、科挙の制度は相変わらず続いていたが、長く続きすぎる体制は必ず制度疲労を起こす。どうやら科挙をなす知識は誤解を恐れずに言うならば、芸術文化系にやや偏りがあって、エンジニアリングのような実学は軽視されがちだったようだ。大学や図書館が整備され、教育が成果をあげ、科学知の勃興が旺盛となった西洋に、エンジニアリングによる革命が先んじておこったのである。
ポルトガルやスペインに代わって、オランダや英国、フランスがより緻密に、奸智にたけた方法で、インドや東南アジア地域を植民地としていく状況下でも、中国は比較的優雅にあるいは呑気に中華思想を堅持していた。明から清へと王朝が代わっても、他国との交流関係を、朝貢を受けるという関係以外、受け入れられなかった中国という存在を、僕らは記憶しておくべきだろう。中国が目もくらむほど信じていた中華文明は、西洋の産業革命で徐々にその優位を失っており、阿片戦争で対峙していた英国は、既に大砲を搭載し、蒸気機関で航行する艦隊を保有していた。貿易に関しても、資本主義的合理性でアジアを見ており、自国と、インド、中国との貿易的バランスに着目していた。
茶、陶磁器、絹などを大量に中国から買う一方で、中国に輸出する品目は少なく、輸入超過に陥っていた英国は、植民地のインドで採れる阿片を清に輸出することで、貿易の均衡をはかろうとしたわけである。清が阿片の輸入を禁じたのちも、武力を背景に様々な方法やルートで阿片を中国に売りこもうとした。
当時、もしも国際連合が存在して、この状況を裁定したなら、阿片売買を背景とする貿易の強要は、倫理性や平和への脅威の観点で厳しく糾弾されたはずである。結果として香港はしばらく英国統治下となったが、この史実はアジアに大きな影響を生んでいる。
2019年の今日、中国の制度に組み込まれることに抗議する香港の人々の行動を思うにつけ、この史実がいかにアジアに複雑な衝撃を生んだかを思わざるを得ない。植民地文化が今日のスリランカやインドネシアの観光産業の基礎を生み出したように、英国が統治した香港もまた、アジアに不思議な影響力を生み出しているのである。
提供 : Bridgeman Images / アフロ 英国汽走砲艦ネメシス号により砲撃される清軍のジャンク船(1841)
一方、千年以上一つの国として長らえ、鎖国をしてポツリと東アジアの端に浮かんでいた日本は、大化の改新の時代からずっと最強国として意識してきた中国が、あっけなく英国に武力制圧された阿片戦争の顛末を目の当たりにして、大きく動揺するのである。変化に対する感覚は、大国中国よりも小国日本の方が敏感で、中枢に影響を及ぼすのが早かった。長崎はセンサーとして海外情報をもたらし、阿片戦争から30年を待たずして、武士が統括していた日本の幕藩体制は崩壊し、大政奉還が行われ、明治政府が誕生するのである。
明治新政府の打ち出した政策は、西洋の外圧から身を守ろうとする過剰な意識に溢れており、自国の文化を打ち捨てて西洋化に舵を切る極端なものであった。同時に、欧米列強に併呑されず、肩を並べる近代国家としての存在感を打ち出そうとするあまり、外へと膨張していく帝国主義的な色合いが強かった。
西洋の科学技術や政治形態を積極的に学んで産業を興し、容易に侵略されない軍備を整えることが必須と考えられ、政府首脳や留学生を含む使節団が欧米に派遣された。政治、経済、科学、教育、軍備など、極めて多岐にわたる領域における日本人の学習意欲は異様なほどに旺盛で、歴史上のわずかな時間の中で急速に日本は変わったのである。
その成果と実力は、日清戦争および日露戦争で発揮され、世界から一目置かれることになった島国は、列強の外圧に耐えることができたかに見えた。
その後、世界を大きく揺るがす二つの世界大戦があった。戦争の誘因は、無数にあるが、端的に言うなら、国家主義と富国への欲望が急速かつ世界規模で広がったことが原因であろう。またその特徴は、戦いの方法が技術革新によって飛躍的に変化し、航空機、戦車、毒ガス、レーダー技術などの新兵器の投入によって、大量の殺戮が行われたことである。第二次大戦の末期には核兵器が用いられ、巨大な規模の殺戮を目の当たりにした世界は、戦争による紛争の解決が取り返しのつかない悲惨な結末を迎えるという事実に直面した。
第一次大戦を契機に、大国の仲間入りを果たしたと認識した日本は、近代主義による啓蒙という大義名分を国威発揚に重ね合わせ、ついにはアジアの覇権を視野に入れる軍の暴走を政治や外交が制御しきれず、台湾、朝鮮、そして中国の領土であった満州に出兵し、植民地化を進めた。
帝国主義あるいは植民地主義は、西洋列強が、アジア、南米、アフリカをその支配下に組み入れる過程で引き起こした、資本主義的欲望の暴走であり、その非倫理性を問うなら、まずは列強のアジア観に焦点を当てるべきであろう。
一方で、中国や朝鮮の、帝国主義への抵抗、あるいは植民地支配への抵抗が「社会主義」あるいは「民族の自立」と結びついた形で起こった経緯を考慮するなら、日本が今なおその植民地支配の歴史を糾弾され続ける理由は、アジア諸国の中で唯一、西欧列強と同等の振る舞いをなしたことへの怨嗟が根深くあることを認識しなくてはならない。
明治維新から第二次大戦までの日本は、まさに世界の強国に並ぶことを目標とし、植民地支配を行い、第二次大戦の敗戦で、それら全ての権利を失った。主要都市を空爆によって焼き払われ、310万人に及ぶ戦没者を出し、核爆弾の投下で、二つの都市を瞬時に失ったのである。
第1章 アジアに目を凝らす
007
第二次大戦後の日本と製造業
観光を産業的視点で捉え直すならば、世界における日本の位置、あるいはその存在感を客観的に捉え、アップデートしておく必要がある。やや回りくどいけれども、日本の未来資源は何かを考える上で、近代史を冷静に反芻しておくことが肝要と考えるので、もうしばらくお付き合いいただきたい。
ポツダム宣言を受諾し、敗戦を受け入れた日本の状態は惨憺たるものであった。空爆による破壊は、東京や大阪といった大都市にとどまらず、地方都市も、度重なる空襲によって破壊された。まさに国土は焦土と化したのである。
1945年の敗戦から7年間、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の間接統治下に置かれた。その間、日本政府は米国の干渉と連合国による極東委員会の監視のもとで新憲法をまとめ、1946年に公布した。その特徴は天皇を最高権力者ではなく象徴とした点と、紛争を解決する手段として戦争を永久に放棄する点、そして軍人の政治介入を許さない文民による国の統制が盛り込まれている点である。
1951年サンフランシスコで連合諸国との間で講和条約が締結され、翌年に発効されて日本の主権が日本国民に返ってきた。時の状況は、米ソの対立が明確になりつつあり、朝鮮半島では東西陣営がせめぎ合う戦争が勃発していた。戦況次第では東アジア全体が共産化しかねない状態で、日本を共産圏からの防波堤、あるいは西側の橋頭堡として利用しようとした米国の思惑が、そこに色濃く働いていたと言われる。
事実、独立はしたものの、自国を防衛する手段を持たない日本は、日米安全保障条約を米国と締結し、アメリカ軍の日本駐留を受け入れたわけである。主権は日本であるが、軍事拠点としてはアメリカ、という構図がここに築かれた。「日米の連携が、東アジアの平和と安定にとって非常に重要」と日米両国が主張し続ける理由はここにある。
核という絶望的な武力を手にした後の人類が、紛争を解決する手段として戦争を用いようとするのは、人間世界の滅びにつながる愚行である。ソビエト連邦崩壊ののち、東西の緊張は終焉を迎えるかに見えたが、中国の台頭という新たな状況下で、世界は再び緊張を増している。強大な軍事力、経済力を背景として、世界の警察的立場を自他ともに任じていた米国も、こうした状況の中で徐々に余裕を失い、自国主義へと大きく舵を切りつつある。狭量・自尊となった米国の姿勢は、今後の世界の趨勢にじわりと影響を及ぼしそうである。
国際的な諸問題を裁定する方法として、理性と客観性が優先され、人類の叡智が機能するなら、武力を持たないという姿勢は誇るべきものである。この点は、日本国憲法前文に示されている通りである。ただ、不確定性の高まっていく世界で、自国主義に傾く米国に対して、米兵の犠牲を想定しつつ、極東の他国を防衛してほしいと願うことにどのような確信が持てるのか、僕らは慎重に考えなくてはならない。すなわち、文民による国の統制と、戦争による解決を永久に放棄するという平和憲法を抱く国として、近代史を踏まえた反省の上で、どのような未来ヴィジョンを持てるかを考えなくてはならないのである。
さて、話を戦後に戻そう。太平洋戦争が終結したのち、焦土と化した日本を牽引していく産業は「製造業」であった。石油や金属など、資源に乏しい日本において、効率良く経済を立て直していくヴィジョンとして原料を輸入し、製品として輸出する「加工貿易」、すなわち「工業」が立ち上がってきたのは自然の趨勢かもしれない。アメリカに安全保障を任せ、産業振興に集中・邁進できた環境も、戦後の日本の工業化と高度経済成長の追い風となった。航空機や戦艦を製造・制御する技術を平和的な製品の製造に転化させ、繊維、造船、鉄鋼、自動車と遷移しながらも日本の工業は驚くべき速さで進化を遂げ、経済的に目覚ましい成果をあげた。
国ごとの民族的資質というものの有無については断言できないが、日本人の生真面目さや几帳面さは「規格大量生産」という20世紀後半の工業化ヴィジョンによく合致したのかもしれない。時代は、ハードウエアの合理的生産に加えて、エレクトロニクスによる、制御の緻密化、コンパクト化が加速した時代であり、日本の工業化戦略はこの波に見事に乗ったのである。
今日の日本の製造業を支える大黒柱となる乗用車の生産は、初期においてはドイツ、アメリカに水をあけられていたけれども、製造法においても、製品の品質においても、市場創造においてもたゆまぬ改善が繰り返されたのちに、世界のマーケットに水のように入り込み、広がり、20世紀の終わりにおいては、世界の自動車産業を完全に牽引するまでに成長・洗練を遂げた。
家電やハイテク機器においても、エレクトロニクスを用いた緻密・コンパクトな製品が世界を席巻し、Made in Japanは世界において高品質の指標と目されるまでになった。水晶振動子式の時計は、その精度と価格において世界を瞠目させ、高性能かつ故障の少ないカメラは、精密プロダクツとして大いに名を馳せた。
1968年、GDPがアメリカに次いで世界第二位となり、東アジアの島国は揺るぎない世界の経済大国となった。地価も高騰し、日本は経済的繁栄にひととき酔いしれたのである。
しかしながら、状況は少しずつ変わり始めていた。経済的にはバブル経済の崩壊が日本の停滞を招いた原因と言われているが、それだけではない。産業を革新とする技術として、コンピュータの進展がすでに着実に次世代の産業の根幹を変え始めており、日本はソフトウエア、インターネット、データサイエンスが融合する産業に出遅れてしまうのである。
第1章 アジアに目を凝らす
008
足元の見つめ方
産業転換の遅れもそうだが、日本が経済の興隆期に得ることができたにもかわらず、見過ごしてしまったものがある。それはアジア全体を視野に入れた未来ヴィジョンと、自国の美意識のアップデートである。
明治期のシルクハットをかぶり、口ひげを西洋紳士風に伸ばし、洋館でダンスパーティを夜な夜な催すようなパフォーマンスは、時代を画する文明の力の様相をわかりやすく表現する演出として必要だったかもしれないし、それなりに効果もあげたのだろう。明治天皇の洋装姿を写真や絵画で目にするにつけ、明治という時代の困難さと激しさを想像する。しかし、西洋への傾倒は、ひと時を凌ぐものでよかった。西洋文明が先に産業技術で革新をもたらしたなら、日本はそのテクノロジーを学べばよかったのであるが、丁寧に、様式やライフスタイルまで、一切を受け入れる努力をしてしまった。谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で言わんとしているように、明治維新はガスによる照明技術を学べばよかったのであるが、“ガス灯のかたち”まで取り入れてしまった。その結果、日本の文化は、生活の中に守られてきた独自の美意識を失ってしまうことになる。谷崎の『陰翳礼讃』に書かれていたものは、日本の隠微・繊細な感受性への礼賛だけではない。むしろその向こうに、文明開化で忘れ去られてしまった祖国の伝統美への思いが切々と綴られているのである。
提供 : MeijiShowa.com/アフロ 東京駅(撮影日不明)
もちろん、文化とは、消費財のように使い尽くされてなくなるものではない。文化を受け継ぐ人々の感性の根元に、種火のように灯り続けているものであり、その気になりさえすれば再現できる力を持つ遺伝子のようなものだと僕は思う。建築も、庭も、絵画・意匠も、工芸も、生活美学も、明治の頃に失速したかに見える日本文化は、蔵の奥にしまいこまれた先祖の遺産のようなもので、丁寧に取り出して埃を払い、新たな世界文脈の中で、光を当て直してみる時期がきていると思うのだがどうだろうか。アジアを含む、世界の文化の多様性に貢献し、豊かに輝かせる資源を自国文化の足元に見出し、未来資源として活用する時が到来している。そんな風に思うのである。
少し明治の話をしすぎたが、第二次大戦の敗戦も、筆舌に尽くしがたい衝撃であった。戦時中の教育は国民に思考の余地を与えず、国を挙げて人々の意識を戦争に向かわせようとするものであった。
人々の教養や思考力を高め、一人一人の判断力を向上させていくという前提が、民主主義には必要である。そういう考えから洗脳教育に違和感や抵抗を覚える人々は少なからずいたけれども、軍事力が政治をドライブさせる異常な環境下では、思考の合理性すら機能しなかった。
一方で、敗戦によってもたらされたアメリカ流、つまり自由と個人主義を謳歌する風潮は、戦時教育に対する鮮烈なカウンターパンチとして戦後の日本人の心や感受性に響いたのである。日本人は自分たちの国を打ち負かしたアメリカという国に心酔していった。特に若者は、音楽、ファッション、ライフスタイル、そして人生観や価値観までアメリカから大きな影響を受けた。物心ついた時にすでに蔓延していたアメリカン・カルチャーを養分として育った日本人の目には、伝統文化や風習といった、古来より守られてきたものは疎ましく感じられたのである。消費文化や流行も、世間の「進取」志向に油を注ぎ、人々は「新しさ」とともにあることを求め、「古さ」はネガティブにとらえられた。戦前・戦中の軍国主義的な価値観と一緒に、歴史を重ねてきたかつての日本もお払い箱にされそうな勢いであった。
第1章 アジアに目を凝らす
009
開かれていること
一方、欧州への憧れと傾倒も、アメリカ崇拝と並行して醸成されていく。大きな挫折を経て復興へと舵を切った日本であるから、近代主義に先に到達した欧州の合理性をもとにした、都市、環境、経済、生産、教育、といったものへのアプローチに敬意を覚え、これを真摯に学ぼうとした。アメリカン・カルチャーは、誤解を恐れずに言えば、好景気に沸き返る享楽的な匂いが強かったのに対し、欧州は伝統と近代的理性の融合が醸し出す勤勉かつオーセンティックな魅力に溢れていた。
敗戦国ながら、第二次世界大戦以前に美術と建築の教育の足跡を残し、現代美術に大きな影響を与えたバウハウスなど、怜悧な合理主義の成果を着々と生み出してきたドイツ、王の統治によって生み出された歴史資産を市民革命によって国の資源として活用・謳歌し、芸術の国として世界から憧れられるフランス、ミケランジェロのような奔放な造形性を持ち、明るく前向きにプロダクツの生産に邁進するイタリア、大学教育に優れた伝統とノウハウを持ち、金融や経済の世界に次々と優れた人材を送り出し続けている英国など、欧州諸国から学ぶべきポイントが、霧が晴れたように次々に現れて、日本はふたたび旺盛な意欲でこれらから学んでいくのである。
アメリカ文化がもたらした自由と享楽、そして挑戦する姿勢は日本人に活気を与え、欧州から学んだモダニズムの知的成果は、日本の産業を大きく成長させる土台となったのである。
写真 : 読売新聞/アフロ 銀座・三越にオープンした日本マクドナルド第一号店 (1973年9月16日撮影)
しかしながら、自分たちが敗れたのは、先進的な欧米文明であると思い込み、それらに疑いのない憧れを持ってしまったことによる、アジア諸国への軽視が、一方では生まれてしまっていたのかもしれない。もしも視点を変えて、アジアをひとつの母体と考えるような理性が持てるなら、そこから、豊饒な未来や産業の可能性が見いだせるかもしれないと思うのだがどうだろうか。
日本で育まれた文化は、決してモダニズムのみがもたらしたものではない。大陸や半島から多くを学び、渡来物に純粋におののき、それを長い時間をかけて咀嚼しながら日本列島にある文化は醸成されてきたのである。
紙や文字は大陸からもたらされた。法や兵法や倫理や哲学、茶や文学、書画の美学を、古代からの長きにわたって中国から学び、また教えられてきた。朝鮮半島の芸術文化に、古来より日本人は多く感化され、李氏朝鮮時代の陶磁器などは現代の日本においても驚くほどその評価は高い。
東アジアは今日、解決の難しい多くの問題を抱えている。それは、史実の列挙や、東西のイデオロギーの対立というような単純な図式では簡単に整理できない複雑なものである。隣人をことさらに意識し、垣根の様相に神経を尖らせるのではなく、少なくとも文化を思うイマジネーションにおいては、その垣根を取り払う創造性が必要かもしれない。
世界は今、グローバルな視点で揺れ動いている。国境を越えて地球上を移動する人々の動きはますます活発になっていく。しかしながら、そういう状況であればこそ、ローカルの価値に注目が集まるのだ。グローバルを先導するのは経済であるが、そうであればこそ、価値を生み出す根源は文化、すなわちローカリティにあることが鮮明になる。なぜなら、グローバルな文化というものはないからである。文化とは、そこにしかない固有性そのものだからである。
欧州の植民地支配が、インドネシアやスリランカに、自分たちの足元にあるものを、いかなる「価値」として世界文脈に提供できるかという「目覚め」をもたらしたのと同様に、東アジアは、グローバルな文脈の中で、東アジアの価値を、連携・呼応して生み出して行く必要があるのではないか。それには東アジアの文化に対する相互の理解と教養が不可欠である。教養とは、自分の国に利益を誘導する知略ではなく、「開かれた知性」なのである。
East Meets Westという場合の、Eastに相当するのは、自国ではなく東洋の全てでなくてはならない。国や体制を超えて、アジア文化圏としてこれを見た場合、今日においても滔々と流れ続けているはずの東洋全体の文化の脈動がそこに見立てられていなくてはならない。
30年にわたる経済・産業の停滞を経て、成長期から成熟期へと向かう日本列島を思う時、上記のような視点で世界に目を凝らしていく気運が、徐々に立ち上がり始めているように感じている。富国に浮かれた急進経済国としてではなく、千数百年の昔に視点を据えなおし、さらに50年くらい先を見通すなら、そこにどんな日本、東アジア、そして世界が見えてくるだろうか。決して世界の中心ではない、ユーラシアの東の端の列島というクールな場所で、静かに、世界の均衡を生み出していく知恵とふるまいが、日本に求められているのではないだろうか。AIが世界を変え始めている今日、未来を見通すことは容易ではないが、そういうヴィジョンと可能性への感応が、若者を中心に少なからず生まれ始めているようにも思うのである。
第2章 ユーラシアの東端で考える
第2章 ユーラシアの東端で考える
010
世界を際立たせるスパイス
20歳の時、はじめて世界を旅した。パキスタン航空の1年間のオープン・チケットを買って、北京、ラワルピンディ経由でロンドンに入り、フランス、スイス、イタリア、ドイツを回った。その後、ユーゴスラビア経由でギリシアに入り、ミコノス島に少し滞在したのちにエジプトに渡り、そこからパキスタンに飛んで、陸路でインドに入るという、いかにも若いバックパッカーの旅であるが、この旅で僕は世界の感触を少し掴んだ。
時折、思い出すものの一つに、フランクフルトで食べたハム・ソーセージの味がある。フランクフルトに行く予定はなかったが、ロンドン発パリ行きの飛行機がトラブルでフランククルトに降りたまま飛ばず、乗客はひと夜のホテルを航空会社からあてがわれた。貧乏旅行にしては思ってもみないホテルに恵まれ、トラブルをむしろ喜んだ次第であるが、翌朝の朝食で驚いたのが、ハムやソーセージの味であった。
それまでは、日本のメーカーが製造する、まん丸にスライスされたものをハムだと思っていたが、そのスカッと爽やかな味わいとは異なり、色・形・テクスチャともに一癖も二癖もあるハム・ソーセージたちは、一言でいうと、圧倒的にスパイシーであった。
中学生の頃、世界史で「東インド会社」という、不可思議な名前の会社を教わった。欧州の人たちは香辛料や絹などを求めて、東方貿易の航路を開き、東南アジアを植民地にしながら、株式会社を設立し、大量の香辛料を船に積んで欧州に運び、大いなる富を築いたという史実である。しかしながら、十代も半ば以前の少年は「香辛料」、要するに胡椒やシナモン、クローブやナツメグがなぜそこまで欧州の人々を熱狂させ、荒海に船出する覚悟までして手に入れようとする対象であったのか、全く不可解であった。
正直に言って、フランクフルトでスパイシーなハムを体験した時も、まだピンと来ていなかったと思う。その後、世界をあちこち飛び回るうちに、歴史の中で、世界をどのような価値が流動していったのかが、おぼろげながらわかるようになってきた。欧州の人々が「胡椒」に魅了された理由も、欧州各国の料理の味を体験し、テーブルに必ず置いてある、やたらと出のいい胡椒シェイカーを振るたびに、あるいは大振りのスパイス・ミルを捻るたびに、なるほどと納得するのである。大航海時代の前の、香辛料が、陸路で微々たる量しか入らなかった頃の欧州の食肉文化を思うと、確かに殺伐とした気分になる。胡椒おそるべし、である。
しかし一方、「唐辛子」なるものは、逆にアジアにはなかった。南米のペルーあたりが原産で、これは逆にコロンブスの米大陸発見を機に、欧州の人々の手によってアジアにもたらされたものである。今日の世界で、もっとも辛い料理といえば、中国の四川、湖南、雲南あたり、あるいはインド、タイあたりを思い浮かべてしまう。赤黒く煮えたぎった地獄の釜のように、唐辛子や山椒が投入された四川の「火鍋」や、多数の香辛料を混ぜ合わせたガラム・マサラから作るインドカレー、唐辛子の痛烈な辛さにレモングラスの酸っぱさの混じるトムヤムクンなど、書いているだけで舌先が燃えそうだが、この中国内陸部やインド、タイは、世界でもっとも遅く、唐辛子が伝播した地域だそうだ。
香辛料といっても、その辛さには色々ある。胡椒の辛さは切れ味のいい「シャープ」な辛さ、山椒の辛さは「麻」と呼ばれる舌がじんと痺れる辛さ、唐辛子の辛さは燃えるような「ホット」な辛さである。唐辛子がなかったということは、四川もインドもタイも、大航海時代の前までは、あの灼熱を感じさせる辛味はなかったということになり、これは実に意外である。
要するに世界は、互いに「ないもの」を交換しつつ、独自の文化を際立たせてきたということだろう。世界の交流は、混ぜ合わされて平均化に向かうのではない。インドのマサラや、四川の火鍋は、唐辛子を得ることで、むしろ個性を先鋭化させたわけである。フランクフルトのハム・ソーセージも、アジアからもたらされた香辛料によって、庶民の暮らしに欠かせない食のエッセンスとして熟成していったのである。
食に限らず、文化全般も同様だと思うのだ。インドシナ半島やインドネシアといった、かつて欧州列強の植民地であった国々も、欧州の文化・技術・欲望がそこに入ってきたことで、独自の成熟を見せている。インドネシアのバリ島しかり、スリランカ然りである。
日本にとっての異文化的触媒すなわちスパイスは、まずは明治維新の欧州文化であり、戦後のアメリカン・カルチャーであった。これについてはすでにお話ししたとおりである。さらに、日本の未来産業として重要になるはずのツーリズムにとって、日本の独自性をむしろ先鋭化させる触媒となるものは何だろうか。僕はそれが「ラグジュアリー」という価値観ではないかと思うのである。
第2章 ユーラシアの東端で考える
011
ラグジュアリーとは
古代から中世にかけて、価値の頂点には「王」があった。こういう大上段に振りかぶったような内容について語ることには抵抗を覚えるが、世界規模の観光の未来を考える上では、「価値」というものの来歴を整理しておく必要を感じるので、大ぐくりに、自分の解釈を述べておきたい。
国と呼ばれるような巨大集団を統率していくには、誰もが逆らえない強い力、つまり絶対的な秩序の象徴が必要だったと想像される。つまり、王は必要から生まれたのである。知力や武芸に優れた個人が戦を勝ち抜き、人々を統率し、頂点に君臨するというような経緯が王の始まりだとしても、結果として古代や中世の社会においては、王という「能力」よりも「しるし」の方が重要になった。英邁であることは理想だが、誤解を恐れずにいうなら、暴君でも暗君でも幼君でも裸の王様でもよかった。突出したオーソリティが巨大集団を支える価値の大黒柱として必要で、それを表象するしるしがあれば、王は王に見え、君主として振る舞うことができた。要するに王として機能することができた。王は明らかに「記号」であった。
たとえば、古代中国の青銅器は、びっしりと複雑な文様に覆われている。すっかり錆びて緑青にまみれ、悄然とした風情には人類史の長さを思わざるを得ないが、そこに集積されている稠密文様は、得も言われぬ不思議なオーラや求心力を発している。つまり稠密文様という記号に表象されているものが「王」そのものではなかったかと思うのである。
青銅器は、出来立ての頃は真新しい十円玉と同じように輝いて、見る者を圧倒する威光に満ちていたはずだ。これらは「祭器」と言われているが、どんな儀式に用いられるにせよ、そこには大いなる力を表象する役割があったはずだ。「高い技能を持つ者が膨大な時間とエネルギーを費やさなくては決して到達できない高度な達成」としてそれらは示され、下々の者たちは、その威容におののきひれ伏したのだろう。
青銅器に限らず、中華を自認する国の装飾は、王や皇帝の威厳を示す荘厳な文様で満たされている。中国以外でも力が横溢している場所に稠密文様は現れる。例えば、インドのムガル帝国の皇帝、シャー・ジャハーンが築いた愛妃の墓「タージ・マハル」は、東西から集めた色とりどりの石でできた精密な象嵌細工で覆われている。イスラム世界においても、モスク内外は高密度な幾何学パターンで埋め尽くされており、その密度の異様さがイスラムの権威を体現しているように見える。美しさを通り越し、威嚇されているようにすら感じることもある。稠密文様はある意味、示威であり、争いの抑止力であったかもしれない。「逆らったら怖い目にあうよ」という、全身に施された刺青のような「凄味」を表象するからである。
シェイフ・ロトゥフォッラー・モスク (イラン)
欧州もまた、絶対君主の時代には、バロックやロココといった極めて複雑な装飾様式が考案され、王の威光をまばゆく彩ったのである。信仰のシンボルであるキリスト教会もまた、戒律やモラルの象徴として、聖性に満ちた冒しがたい威風を発し続けなければならず、ゴシックに代表される壮麗な建築に莫大なエネルギーが投入されてきたのである。王侯貴族が座る椅子は「猫足」と呼ばれる湾曲や様々なディテイルがあり、座る道具というより、位の高さを暗示する記号と考えた方がいい。
人々は王宮に憧れ、教会に誇りを感じ、装飾に満ちたインテリアや家具、華麗なシャンデリアを誇りとして受け継ぎ、そのレプリカや様式を、自分たちの暮らしに、威光のお裾分けをいただくように取り入れようとしたのである。王と国々が刻んだ長い歴史の中で、ぽたりぽたりとしたたる石灰質の水が遠大な時間の中で鍾乳洞を成すように、ラグジュアリーを価値と仰ぐ暗黙の志向は、少しずつ人々の世界像の中に刻み込まれ、育てられてきたのだろう。
ヴェルサイユ宮殿 鏡の間 (フランス)
もちろん、華美な装飾の中にも、洗練や抑制が生まれ、エレガンスという慎み深さも派生したけれども、庶民の憧れは、王宮を頂点とした晴れやかな装飾に向けられた。王の力や権威が形式化し、普通の生活者が主役となった今日においても、人々のラグジュアリーへの憧憬は、根強く残っているのである。
第2章 ユーラシアの東端で考える
012
クラシックとモダン
一方、王の時代は終焉を迎え、世界は近代社会へと移行した。これは西洋における「市民革命」というかたちで始まった。世の中の価値の中心は王ではなく、普通の生活者ひとりひとり、すなわち市民が主役となる社会が到来したのである。フランス革命が18世紀の終わり頃であることを考えると、さして昔の話ではない。このような社会においては、合理性という考え方が徐々に社会に行き渡り、人間が作り出す建築も家具も日用品も、過剰や無駄を省き、素材・機能・かたちの関係は、最短距離で結ばれる方がよい、という明晰な考え方が立ち上がってきた。これを近代主義、あるいはモダニズムという。
王や貴族にかしずいてきた建築や調度品は、しなやかで自由になり、アール・ヌーボーや未来派、セセッション、デ・スティル、あるいはバウハウスの運動から生まれてくる斬新な造形やデザインの視点、建築においては、ル・コルビュジェやミース・ファン・デル・ローエといったモダニズムを代表する才能の生み出す空間が、権威や様式から解き放たれた理性の輝きによって、オーラを発して見えたのである。
一方、市民革命のみならず、産業革命というテクノロジーのイノベーションが引き続き欧州でおこった結果、世界の富はひととき欧州、あるいは北米へと集められ、ラグジュアリーの主宰者は王から企業家あるいは富裕層へと移っていった。成金という言葉があるが、庶民が努力と幸運によって大きな富を手にした場合、その富の使い道として行ったのが、自分の邸宅を豪勢に普請することであった。あたかも昔から高い位の貴族であったかのように装う振る舞いを、将棋の「歩」が「金」に変わる「成金」になぞらえた言葉である。西洋ではこれをヌーボー・リッチというそうだ。いずれも富を得た者たちの、板につかないラグジュアリーを揶揄するニュアンスが感じられる。要するに社会のメカニズムは更新されたけれども、かつてあったオーソリティへの憧れは、根強く残っていたようである。富裕層は王の記号であった豪奢を志向し、それを冷ややかに観察する庶民は、富だけでは簡単に手に入らない価値として、オーソリティへの憧れや敬意を密やかに抱いてきたのかもしれない。
もしも人間が、合理性だけで生きていくものだとしたら、近代主義すなわちモダニズムの波が、環境の全てを覆い尽くしていきそうなものであるが、現代の欧州の国々を見てしみじみと思うことがある。高層ビルが立ち並ぶハイテク都市も心地良いけれども、古い街並みや、歴史を超えて守られてきた旧市街に、価値の中枢が、変わりなく息づいているのではないかと。
街の中心に教会の尖塔がそびえ、土地の秩序を差配して来た領主の城が地域のヘソを作り、庶民たちはその様式を進んで受け入れ、それぞれの住まいや広場、市場や盛り場を形成していく。長く続いてきたものの中には、それだけの時間を、日々の暮らしや充足に捧げてきた人間の叡智が溶け込んでおり、人々はそれを合理性で割り切って更新することはできないのかもしれない。したがって、世界の人々のクラシシズムへの志向は想像以上に根深い。
毎年、ミラノで、巨大な家具の見本市「ミラノサローネ」が開催される。現代を生きるデザイナーとして、新しいデザインの潮流に誘われて、このイベントを訪れることも少なくないのだが、新しさを志向するエッジの効いたこのイベントにおいてすら、巨大な展示会場を埋め尽くす家具の多くは「クラシック」であるか、それを意識した製品であり、クラシシズムの桎梏を振り切って純粋に「モダン」を志向する製品が大勢を占めているわけではない。家具の見本市は、世界中に新しくできるホテルなど「大口の需要」を対象に行われるわけであるから、おのずとその趨勢は世界のホテルの保守的な趣味嗜好を反映したものとなる。
モダニズムの萌芽を経て、ドイツのバウハウスでデザインがその思想の双葉を広げ、以降、爆発的に、外界環境形成における合理的な考え方が世界に広まった。とはいえ、世の人々の豊かさへの憧憬はまだまだ保守的なのである。この傾向は特に富裕層になるほど顕著である。
資本や富が世界を動かすようになった時、王宮の記号性は富裕層の豪邸、あるいはホテルへと引き継がれたのかもしれない。ホテルでは婚礼や宴会、パーティが毎日のように行われ、美酒、美食、ファッションや社交を楽しむ晴れやかな舞台としての役割を果たしている。
人々はここで晴れの時間を過ごしたいと思い、金持ちはこれを所有したがり、美に通じるものは、これを創造したいと思うようになる。
第2章 ユーラシアの東端で考える
013
日本のホテルはなぜユーロ・クラシックなのか
欧州の人々が、かつての王侯貴族の趣味を伝統と考え、その様式に憧れやノスタルジーを覚えるのは、仕方がないというか、自然なことかもしれない。しかし振り返って日本を見ると、名だたるホテルがいずれも、同じような方向を向いているように見えるのはなぜだろうか。
理由はいくつか考えられる。まず一つには、国際的な場において一国の文化を振りかざすような表現は決して優雅ではないからだ。国際的な空気を考慮しない自国趣味の露出は、来訪者にはやや鬱陶しい。国を代表するホテルは、世界各地から訪れた客人たちが違和感なく過ごせる普遍的な格式を備えていることが求められているわけで、玄関で靴を脱ぎ、畳の上に座布団を敷いて座るというような作法を、異国からの来訪者に押し付けることはできない。ホテルというサービスの目的は、そこで過ごす人々をリラックスさせ、気持よく快適に滞在してもらうことにある。日本の美意識だからと言って、不必要な緊張を強いるのは野暮である。むしろ先方の様式でもてなすことを謙譲の美徳とするという考え方もあるだろう。
さらに別の理由も考えられる。日本のホテルは、異国からの来訪者をもてなす作法を身につけていくことで、日本人自身が西洋文化を咀嚼し、教養としてこれをこなしていくロールモデルを演じてきたのであろう。フォークやナイフの使い方やテーブルマナーを知らないことを日本人は恥と考えてきた。音を立ててスープをすすらないことや、食事中のナプキンの使い方、酒の注ぎ方など、自分の生まれ育った文化とは異なる流儀にどぎまぎしていたことを思い出すにつけ、国際的なホテルの、日本における教育的役割を認識せざるを得ない。
要するに、日本流である前に西洋流をそつなく高度にこなしてみせることが、日本の高級ホテルに課せられた使命であり、前提だったのだ。それはテーブルマナーに限らず、時宜に応じた服装の整え方や、儀式やパーティの催し方、西洋流の立ち居振る舞い、サービスの頼み方、受け方など、実に多岐にわたっているはずである。そういう文化や考え方が芯まで染み通っているのだとすると、日本のホテルのあり方は簡単には変わらない。これは西洋のクラシシズムにおもねっているのではなく、そういう役柄として機能し続けているからである。
しかしながら、である。どこの国、どんな文化圏を訪れた時も、人の心に感動の火を灯すのは、その国や文化のエッセンスをもってもてなされた時である。先に近代化を成し遂げたという歴史的な優位が西洋にあるとしても、やがて文明の均衡が訪れた時には、それぞれの文化は当然のことながら平等に並び立ち、それぞれの独自性を発揮していくことが世界を豊かに輝かせるのである。そこをわきまえて、自国風を謙虚に世界に供していく姿勢には胸を打つものがある。
そんなことを考えつつ、筋の通った日本の旅館のたたずまいなどを思い返していると、腹の底からふつふつと、不思議な意欲のようなものが湧き上がってくるのを抑えられない。
できることなら、ユーラシアの東の端の島国に育った、他のどこにもない文化の独創性を磨き上げ、静かに、満を持して、世界に差し出してみたい。そして文化の多様性こそ世界の豊穣に寄与するものであることを、日本の地で冷静に表明してみたい。
明治はすでに遠くなったはずなのだ。確かに文明開化は、日本にとっては巨大隕石の落下のような、激烈な衝撃であり、その痕跡は未だに長く尾を引いている。天皇や皇族が儀式の際に着用する礼服などを見ても、日本という国において、明治はすでに伝統の一部として定着しているようだ。しかし日本も世界も変わりつつある。産業の様相も大きな変化の節目を迎えている。無意識に刷り込まれた西洋崇拝からそろそろ目を覚ましていい頃ではないか。
もしもホテルが文化についての教育的機能を担うとするなら、今度は西洋ではなく、日本の文化を教えてくれるような場所になってほしい。これは異国からくる人々に対してではなく、日本人に対してである。もはや日本人は、日本流というものへの意識が希薄になりかけていて、その独自性や、それをもって世界をもてなす誇りに気づけなくなっている。そんな状況に覚醒的な影響力を持つ、和のホテルが出現してくると面白いと思うのだがいかがであろうか。
家具調度、織物、置物、飾り物を和様にする程度の表層的な解釈ではなく、土地や環境と向き合う建築そのもののあり方や、客室やホテル空間をなす基本言語、具体的には寝具やテーブル、ソファ、浴室、洗面台といったものから、ロビー、宴会場、レストラン、ライブラリー、スパなどの共用施設まで、ありとあらゆる空間言語に、世界の人々に心地よく使ってもらえる機能を前提に、日本の美意識を躊躇なく注入すればいい。もてなしの作法は言うに及ばずである。
今でこそ、蕎麦は音を立ててすするのが合理的だという考え方から、むしろ積極的に異国の人々にこれを説明できるようになった。握り寿司を手でつまんで食べることも。そうなるまでにはいささかの時間を要した。ホテルも同様、小さなものから少しずつ、変わり始めていくのかもしれない。
第2章 ユーラシアの東端で考える
014
シンドラー・ハウス
桂離宮を始めとする日本の伝統建築が、バウハウスの創始者である建築家ワルター・グロピウスや、同時代の建築家ブルーノ・タウトらに新鮮な感動を与えた経緯はよく耳にするエピソードである。ただ、彼らの評価を、当時の日本建築界のリーダーたちは、やや耳障りに感じていたそうだ。
当時の建築界を牽引していた日本のモダニスト達は、むしろ日本こそ建築のメッカであり、西洋のモダニズム経由でわざわざ評されなくても、世界の豊かさに貢献できる建築資源の宝庫であることを自負していたからだという。この逸話をどこかで読んで、なるほどそうかもしれないと、一度は腑に落ちた思いがしていた。異国の人々から過分なお褒めをいただかなくても、日本は西洋文化の波に飲まれて自国のことを見失っているわけではない、国力の充実や経済の成熟とともに、それは自然と発露されていくはずであろうと。
しかし今、ふたたび考え直してみると、双方の、日本の伝統建築に対する受け止め方には、微妙に交わらない点があるように思われる。タウトも、グロピウスも、そしてフランク・ロイド・ライトも、日本の伝統建築に新鮮な衝撃を受けているようだが、そのポイントが、日本の建築家たちが考える日本の独自性とは、微妙なずれを持っていたのではないか。
明治維新以降の日本の建築はモダニズムと格闘しつつ歴史を刻んできた。建築が今日のように身軽ではなく、国を背負うような立ち位置で語られてきた時代に、伝統と西洋モダニズムの相克を意識しながら仕事をすることは、どんな葛藤を孕むものだろうか。モダニズムの波、そして西洋の近代建築の流れを旺盛に学び、把握しつつ、日本のアイデンティティを思い、独自の建築のあり方を模索し続けた建築家は決して少なくはない。少なくないどころか、建築家という職能は、明治維新以降、日本のヴィジョンを自らの仕事に重ねざるを得ない立場にあった。
辰野金吾、村野藤吾、吉田五十八、堀口捨己、山田守、前川國男、坂倉準三、吉村順三、白井晟一、谷口吉郎、丹下健三、菊竹清訓、黒川紀章、原広司、磯崎新、安藤忠雄、伊東豊雄……。近代へと舵を切った日本という国の中で、建築という目覚ましい解釈を通して、日本のヴィジョンを模索し続けてきた建築家の仕事からは、その葛藤や高揚、使命感や立場がそれぞれに感じられて興味は尽きない。
ただ、タウトやグロピウス、そしてライトが心を震わせた、日本建築を経由したモダニズムのイマジネーションは、日本人建築家が体現してきたものとは微妙に異なるように思われる。それは解釈や思想の問題ではなく、ひとつの文化をめぐる彼我の立場の違い、つまり関係性の問題かもしれない。西洋の建築家たちは、誤解を恐れずに言えば異国の伝統建築を享受する側、つまり「客」の目線でこれを見ていた。日本の建築家たちはいずれも日本を同時代の文脈に具現する「亭主」の目線で建築を考えていた。そのような違いとでもいうか。
ロスアンジェルスに「シンドラー・ハウス」というものがある。これはルドルフ・シンドラーという建築家が作った自邸である。シンドラーは、オーストリアのユダヤ系中流家庭に育ち、オーストリアで建築を学んだのちに、米国に移住した建築家で、のちにロスアンジェルスを中心に、近代的な住宅を多数設計している。フランク・ロイド・ライトに師事し、ライトが帝国ホテルの仕事のために、日本とシカゴを行き来していた時代に、シカゴのライトの事務所を守ったり、また新たな施主からの仕事に対応するためにロスに移住して仕事を始めたりしている。シンドラー・ハウスは、ロスに移住する際に設計した住宅で、結婚したばかりの妻と自分、そしてもうひと組の友人の建築家夫婦がキッチンやシャワーなど、水まわりを共有しつつ暮らせるように設計されている。
ロスを訪ねた折に、日本的な住宅があると紹介されて、何気なく見学したものである。最初は、率直に日本のエッセンスを捉えたものだと、感心はしたものの、さして気にはしていなかった。日本の影響というのは、案外と世界の至る所にあるからである。しかし、時間がたつほどに、そして自分の興味が、客室数の少ない日本式のホテルのあり方に向かえば向かうほどに、シンドラー・ハウスが想起されてくるのである。
シンドラー・ハウスの特徴は、外部に向かって開放的であると同時に、天井や軒が低く、そして、空間構成が、床や柱のみならず、細かく設計された家具のすべてが、垂直と水平を意識した造形になっていて、そのバランスがとても日本的であるという点にある。
これが、日本趣味を反映することを目的に作られた住宅であれば全く別の印象を持ったかもしれないが、純然たる自分たち夫婦の住まいとして設計されている点が記憶に残った。
確かに、軒の低さは、ロスの光の中でも落ち着いた印象を生み出している。低い軒でフレーミングされた外部は、庭として内部と自然につながっていくように感じられる。この建築における庭は、外部というよりも「居間」として想定されていたという。
二階に相当する場所は、外部から遮断されていない、オープンな寝室として設計されている。おそらくは冬も温暖で、雨も極めて少ないカリフォルニアの気候が許した設計だろうが、なるほど、日本の建築を、本気で自分たちの環境で生かそうとするなら、こういうスタイルがあるのかと、改めて気付かせてくれる着想である。特に、垂直と水平を意識して設計された家具は、たいへん興味深い。日本の建築は、垂直と水平の軽快な連続性と、天井の低さ、そして軒の低い開口部のフレーミングによって、外部を庭として内部に呼び入れる点に特徴があり、そのような空間には、曲線的なボリュームを持つ家具は似合わない。正面とも側面とも、背面ともつかない、垂直と水平のデスクやチェア、ソファやオットマンといった家具が、シンドラー・ハウスの中に、平然と当たり前のように配されている光景には、正直に言って意表を突かれた思いがした。
そしてこれらの空間のどこにも、工芸的な日本のディテイルはないのである。それによって和洋折衷の抹香臭さを感じさせずに、日本の空間の心地よさを自然に堪能することができる。
シンドラーが、帝国ホテルの仕事にどう関与し、日本のどの伝統建築に触発されたのかは、知る由もないのだが、シンドラー・ハウスは、自邸、つまり自分が使う建築、別の言い方をすると「客」あるいは「ユーザー」として日本建築を咀嚼したものとして眼前に現れた。それは、歴代の日本の建築家たちが背負っていた重たいものを全く感じさせない軽みを持った日本流であった。
第2章 ユーラシアの東端で考える
015
外からの目
ここで再び、エイドリアン・ゼッカとアマン・リゾーツに触れてみたい。僕は密かに、アマン・リゾーツのホテルが日本にできることを恐れていた。なぜなら、日本人がまだ達成しきれていない、日本をもって世界をもてなすホテルの形を、先んじて示されるのではないかと心配していたからである。
そんな心配をしなくても、筆者が知らないだけで、日本にはすでに見るべきホテルが多数存在すると言われるかもしれないが、もしそうだとするなら、僕の知見が不足しているということになるかもしれない。あるいは、見解の相違ということもあるだろう。僕は、日本の文化のリアリティや価値は、今日の世界の文脈において非常に高い潜在性を持っていると感じ続けてきた。したがって現状にはほとんど納得できていない。だからアマンに限らず、外からの目によって、日本文化の高い潜在性が、見事なもてなしのかたちとして体現される事態を、なかば恐れ、なかば覚悟している。それはひとえに、日本人の自国文化に対する自己診断の甘さと自信の欠如、そして戦後七十数年、工業立国へと舵を切り続けてきたことによる、観光という産業への期待度の低さや目利きの乏しさ、そしてなにより、時宜に相応する気運を作り出せていない、クリエイターとしての我が身の不甲斐なさにほかならないのであるが。
アマン・リゾーツを創設したエイドリアン・ゼッカの生い立ちや来歴については前章の003で少し触れた。インドネシアの富裕な家に生まれ、植民地文化を糧に育った感受性は、ローカル文化、特にアジアの文化を世界の文脈に差し出すサービスのあり方を巧みに構想できる能力をこの人物に付与したようである。
エイドリアン・ゼッカは、アマン・リゾーツを立ち上げる前に、香港のザ・リージェントの共同経営者として仕事をしていたそうだ。アジアにおける国際都市香港の魅力を凝縮したような、ザ・リージェントの存在感は、今でも強い残像として記憶の中にある。香港島を望むヴィクトリア湾に張り出した立地に建つホテルは、全客室が広々とした窓を持つハーバー・ヴューで、行き交う船を一日中見ていても見飽きない。料理というものの底力に触発され、ようやく舌が成人式を迎えたような気分になったのも、ここの広東レストラン『麗晶軒』である。エントランスの風格も接客態度も堂々としていて、まさに洋の東西が混交する豊かさと誇りを、全身に漲らせていたように思う。僕がこのホテルを利用していたのは1990年前後であるが、バブル景気に沸いていた東京という都市のホスピタリティの貧しさに、同時に気づかされたホテルでもあった。
ザ・リージェントは、ハワイのカハラ・ヒルトンを超一流のホテルに育てた、稀代のホテリエ、ロバート・バーンズがその全盛期に情熱を注いで作り上げたホテルだが、その共同経営者としてエイドリアン・ゼッカは参加していたそうだ。ザ・リージェントは残念なことにバブル時代の日本の金融の動乱に巻き込まれ、バーンズは1992年にここを離れることを余儀なくされた。「ザ・リージェント」は、2001年に「インターコンチネンタル香港」となる。
その経緯は山口由美氏の著書『アマン伝説』に詳しく綴られている。このザ・リージェントの経験を経て、エイドリアン・ゼッカは、氏の最初のホテルとなるアマンプリをタイのプーケットに始めることになるのであるが、遡って、香港のザ・リージェントが始まる二十年ほど前の、まる二年を、氏は日本で過ごしていたそうだ。
植民地文化の中で育ったエイドリアン・ゼッカは、アメリカのタイムライフ社の社員として日本に駐在し、その後は、香港でアジアのニュースや文化を紹介する『Asian Magazine』や『Orientations』という雑誌を創刊してアジアの文化情報に通じていく。『アマン伝説』に描かれている内容は、ゼッカの仕事の成り立ちや進展の脈絡を丁寧に紐解いており、そこで語られているザ・リージェントヘの関与、そしてアマンへと動いていった経緯には、深く考えさせられるものがある。ゼッカは欧米の顧客のラグジュアリーやエキゾチズムへの嗜好を正確に把握するとともに、アジアに精通していた。そして日本を知っていたのである。
日本滞在時代のエイドリアン・ゼッカは、タイムライフ社の販売部長として働いていたそうだ。それは1956年から58年、もはや戦後ではないと言われた時代ではあったが、この時代の日本の暮らしぶりは決して華やかなものではなかったはずだ。ホテルも、決して傑出した空間やサービスを提供できる状態ではなかった。『アマン伝説』によると、当時のゼッカがよく訪れた場所として、「三浦半島のヴィラ」というものがあったという。丁寧な取材に基づくその記述によると、この施設は、日本に21年間滞在したアメリカ西海岸出身の写真家、ホレイス・ブリストルが、浜諸磯という場所に、日本の大工に作らせた14棟のヴィラであったということである。海に面した高台に建つこの建物からは、富士山がよく見えたという。
実は僕も、三浦半島の「荒崎」という場所に、ある仕事でホテルを構想したことがあり、その立地感には覚えがある。海岸線が複雑で岬や入り江が幾重にも重なる半島の西側の海沿いからは確かに富士山が見える場所がいくつかある。
ホレイス・ブリストルのヴィラは『アマン伝説』に掲載されている写真を見ると、明らかに和の空間であるが、同時に靴を履いたまま過ごす、西洋式の椅子の暮らしに見合った様式となっている。どこかシンドラー・ハウスを彷彿とさせる、まさに「客」の視点から見る「あらまほしき日本の別荘」を体現しているように見えた。シンドラー・ハウスの完成は1920年。週末になるとガールフレンドを車に乗せて出かけていたという当時のゼッカが、このヴィラを楽しんでいたのが1957年前後。第二次大戦前後の非常時の日本ではなく、ほのぼのと平和が満ちている時代の日本である。『アマン伝説』の著者はこのヴィラに、アマン・リゾーツの原型を見ている。この着眼は実に正鵠を射ているように思われる。確かに、日本式の建築が、日本の景観や風土を堪能する最適な空間として、異国の人々に向けて設えられた、いわば「始まりの日本ホテル」の原像がここにあるように感じられるのだ。たとえそれが、異国人が日本を享楽的に味わう空間だったとしても、である。そこには「亭主」として異国の客人を迎える、日本を背負った建築家の仰々しい気負いはなく、ごく自然に、そしてやや節操なく、日本の空間の粋や妙味が、国際的な文脈に向けて発揮されていたように感じられる。
今日、エイドリアン・ゼッカは、残念ながらアマンにはいない。ホテル経営というものは、常に株主の意向や資本の動きによって変化していくもののようだ。したがってゼッカなきあとのアマンがどのような思想で運営・展開されているかは定かではない。それでも、日本に構想されるアマン・リゾートのホテルに僕が恐れを抱くのは、爛熟のコロニアル文化の中で育ち、欧米のインフルエンサーの嗜好を知り尽くし、そして日本文化の潜在力もわきまえているという、その経験の延長線上に日本のホテルを構想できる創始者、エイドリアン・ゼッカの影響力に、一目も二目も置いているからに他ならない。
結果として、東京、志摩、京都と、しかるべき場所にできたアマングループのホテルを見て、僕は正直に言って、やや胸をなでおろしている。ホテルとしての水準はいずれもとても素晴らしく、和の取り入れ方も巧みである。志摩のアマネムは、大胆にも伊勢神宮をモチーフとし、水や湯のあしらいも見事であったけれども、僕が恐れていたようなホテルではなかった。
それは端的にいうと、客室やロビーを構成する空間言語が、いずれも欧州由来のホテルの流儀に根ざすものであり、日本独自の空間デザイン言語を生み出してはいなかったということである。ベッドはベッド、ソファはソファ、デスクはデスクで、いずれも和風の意匠ではあるものの、和の感受性から生み出された空間言語には到達していなかった。これらがもし、エイドリアン・ゼッカ率いるアマン・リゾーツであったなら、はたしてどうだっただろうか。
それでは、和の空間デザイン言語と一体はどんなものか、何が日本のラグジュアリーたり得るのか。そろそろ本題に入っていかなくてはいけない。これについて僕は以下のように考えている。
和であると言っても、畳の座敷とか、座布団の置き方であるとか、侘びた風情であるとか、しかつめらしいことを言いつのるつもりは毛頭ない。ホテルはあくまで国際的な空間であるから、旅館とはサービスの根幹が異なる。「休む/食べる/寝る/働く」という普遍的な営みに対して、その国の美意識で何が具体的に差し出せるのか、という点が重要である。更に言えば、おそらくはここに、積年の課題であるラグジュアリーに対する日本の答えが、含まれているように思うのである。それは次のようなものである。
・内と外の疎通
・下足処理
・安息のへそ
・空間の多義性
・垂直と水平
・隅とへり
・水と湯
・天然素材の用い方
・アートの配し方
・花あしらい
・手洗いの美学
これらの課題に対して、いかに具体的な解答を生み出していくかという点に尽きると僕は考えている。以下、順を追って語っていくことにしたい。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
016
内と外の疎通
屋外と屋内とが融通する居住性、これが日本という風土における暮らしの知恵であった。冬の寒さよりも夏の暑さをしのげるように伝統的な住居は工夫され、気候のいい折には、縁側のように内でありながら外であるような開放的な空間に居心地の良さを見出してきたのである。従って、日本の風土を建築で咀嚼・解釈し、もてなしの空間を作るなら、まず考えられていいのが、内と外の疎通ではないかと僕は思う。
低空飛行で紹介している「TENKU」のヴィラは、それを意識して設えられた宿である。「TENKU」は霧島連峰を望む三万坪におよぶ山をまるごと敷地とする宿泊施設にわずか5棟の木造のヴィラしかない。主人の田島健夫が独力で切り開いた大空間は、贅沢といえばそれまでだが、ここでどんな時間を過ごせるかという、挑発的とすら感じられる問いかけが、この施設の魅力である。
それぞれのヴィラには、まさに天空に開かれたウッドテラスが広がっており、山中に抜群の居心地を生み出している。自然の起伏に富んだ地形をデッキの直線で切ることで景観を際立たせること、そして室内の調度、具体的には寝椅子や風呂・シャワーなどはできるだけ外に出して、室内は必要最小限にしてはどうかと、田島氏にやや無責任な提言をした記憶があるが、それがしっかり実現されているのには驚かされた。
遠景に向かって大胆に張り出したテラスは山の空気を満喫する楽園のようだ。そんなテラスの一隅に風呂が設けられている。浴槽に張られた湯に空がきれいに映り込み、それが境い目なく霧島連峰の空へと続いている。「ドレスコードは裸」などと謳われているが、確かにここなら安心して裸になれるかもしれない。この天空の風呂に身を浸すと、全身で風景の全てを堪能しているような快楽を覚える。
テラスの所々に穴があいていて、そこから立派な樹々が空に伸びている。周囲には芝生や菜園があり、風に揺れる樹々にハンモックが吊られている。矩形のパラソルの形のよい影が落ちる場所には木製の寝椅子が並んで配され、吟味された綿のバスローブを羽織って身を横たえると、冷えたシャンパンの入ったワインクーラーに手が触れる。耳に入る音は山を渡る風の音、そしてミツバチの羽音である。
同じく低空飛行で紹介している施設の中の「アマネム」も、客室から志摩の海を望むテラスの開放感が素晴らしい。木製サッシをていねいに設えて、開けはなつと扉の存在を感じないような大開口が、客室と志摩の静謐な海景をひとつながりの空間にする。ここは建築の仕上げが丁寧で、素材や建具の収まりがピシリと整っていて気持がいい。
このホテルのご馳走は、紀伊半島の端まで来ないと手に入らないとびきりの静寂であり、まどろむような志摩の海の景色である。内と外の融通によって、それを堪能できる装置を丹精こめて設計しているケリー・ヒル・アーキテクツの手腕は見事である。
2019年に、無印良品の家として発表された「陽の家」は、コンセプト細部まで監修させていただいたものだが、この平屋の最も重要な点は、やはり内外の疎通である。広いウッドデッキを持ち、室内の床とデッキの面は段差なく真っ平らに連続している。木製ではないが、大きくて性能のいいサッシが三つ、開けた時の扉が全て壁にぴたりと収納できる仕様となっている。従って、全ての扉を開け放つと、部屋は庭のデッキとひとつながりの空間になる。
ダイニングテーブルの脚にはキャスターが装着され、テーブルの上に用意された料理は、その気になればするするとスムーズに屋外のデッキに移動できる。つまり天気のいい休日などには、庭でブランチを楽しむ愉楽が実に簡単に手に入るのである。屋外のデッキには、四方から階段状に掘り下げたファイヤープレイスもあり、バーベキューを楽しんだり、火を囲んで酒を飲んだりもできる。
これは、住宅として設計したものであるが、独立型のヴィラとして展開し、ロビー・ラウンジやスパ、レストラン、カフェ・ライブラリーなどの共用部を追加すれば、自然景観を堪能できる機能的なホテルとしても十分に可能性がある。
無印良品の思想の延長に構想したものであるから、いたって簡潔であるが、ラグジュアリーの要点、すなわちご馳走のポイントを、その土地の風土を満喫することに置くなら、あながち質素とは言えない考え方である。
ホテルの豊かさを、その土地の恵みを、最良のかたちで来訪者にさし出すべく準備されていることと考える、つまり環境と一体になる工夫と考えるなら、日本の風土においては内外の疎通が重要である。やや乱暴な言い方かもしれないが、近代建築がドイツのような北方の寒い地域で発展したせいで、知らず知らずのうちに住居の性能が、屋外と屋内を遮断する断熱性能ではかられるようになってしまったのではないか。ミース・ファン・デル・ローエが構想した鉄とガラスの建築は、空へ、つまり垂直方向へと居住空間を発展させ、自然を遮断した室内に、制御された快適さをもたらすことに成功した。これに異論をさし挟むつもりはないが、壁やサッシで内と外を遮断してしまうと、自然を楽しむことができない。やがては、自然に対する感覚も鈍くなってくる。
先端技術が先鋭化する中で、天然の素材や土地ごとの自然環境がもたらす恵みを堪能できる居住のかたちを、そろそろアジアから提案していく時期かもしれない。開放性や内外の融通を意識した空間デザインは、日本はもとより、南方的あるいはアジアモンスーン的な志向でもある。内外を遮断する理由は、寒暖の差ではなく、虫などの侵入であるという視点も侮れないが、蚊の侵入ですら防げるような緻密・繊細なテクノロジーが、そういう場所で生かされてくるのではないかと僕は想像している。
かつての日本人は、隙間風のはいる障子や蔀戸で仕切られた屋内で、火鉢に入れた炭火で暖をとりながら冬を暮らしてきた。夏は障子を葦簀張りの引き戸に変えたり、窓を開け放ち、日よけの簾を窓に吊るしたりして、通気とプライバシーの確保を両立させてきた。そんな工夫を、ラグジュアリーという視点から今一度捉え直してみることが、日本の風土と伝統を未来資源として活用する第一歩なのではないかと思うのである。よく考えられた旅館では既に確立された空間言語であるけれども、日本式のもてなしをホテルに求めるとするなら、これははずせないポイントになるはずである。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
017
靴脱ぎと床の切り替え
日本の習慣では、玄関で靴を脱ぎ、一段高い床に上がって室内へ入る。これは湿潤な風土において、室内空間を屋外と峻別し、屋内の清潔さを維持する工夫であると考えられる。この習慣は、縄文時代の竪穴式住居で既に生まれていたと言われる。実に一万年前からのことである。竪穴式住居は、縄文、弥生、そして平安時代まで庶民の住居として用いられていた。遺跡の発掘調査や万葉集の歌に詠まれていた暮らしの情景などから、藁や板が屋内に敷かれていたことが推定されており、泥に汚れた履物を脱いで上がる場として機能していたのではないかと考えられている。高床式の穀物倉庫も、動物の被害のみならず、泥や湿気の浸潤を避ける工夫でもあった。結果として、屋内を清浄に保つことへの意識が助長されたのではないか。この靴脱ぎの習慣が、日本人の空間に対する美意識の、大事な側面をなしているのではないかと僕は思うのである。
国立国会図書館ウェブサイトより
最近の日本の住居では板張りの床が増えているが、少なくなってきたとはいえ畳の間もまだ健在で、板の間で用いられる室内履きのスリッパも、畳の間に入る際には脱いでいる。この習慣には、畳の間は板の間よりも、清浄さの格が上であることが、無意識に表現されているように思う。
今日では中国でもほとんどの家は玄関で靴を脱ぐ。ここ10年ほど「HOUSE VISION」というプロジェクトを展開してきた。これは「家」を未来の産業の交差点、つまりエネルギーや移動、通信、コミュニティなど、多彩な要因を立体的に交差させるプラットフォームと捉えて、原寸大の家を様々なアイデアとともに具体化させつつ、近未来の様相を探ろうという試みである。その活動の一環として、中国の現代家庭の住空間をかなりの数、調査したことがある。結果として玄関で靴を脱ぐ割合は97%に達していた。これはもう日本と同水準である。しかし決定的に違うのは、中国の住居は入り口に段差がなく、靴を脱ぐ玄関と室内が同一フロアとして連続している点である。つまり、靴を脱ぐ床と室内が同じ平面なので、屋外と屋内の境界が波打ち際的な曖昧さを持っている。これに対して、日本は「上がり框」という歴然とした段差によって、内外の区分けが明快になされているのである。
上がり框は、泥や埃を室内に侵入させない工夫であるが、さらにいえば、清浄な領域にはいるというみそぎの空間、つまり心身ともに清まるという心理のスイッチなのである。
したがって、日本のもてなしの空間を考えるにあたっては、靴脱ぎと床の段差は大切な要点になる。それは空間の清浄さと同時に、空間の意味を切り替え、室内に入る人の心理をコントロールするポイントとなるからである。
一方で、室内に入るときに靴を脱ぐ習慣のない人々にとっては、靴を脱ぐという行為は、着衣の備えを一つ剥ぎ取られて無防備になる感覚と、靴紐を解いたり結んだりする脱着の煩わしさが生じるという意味で、必ずしも歓迎されない。したがって、一方的に日本流を押し付けるのではなく、これをむしろ心地よい体験と感じてもらえるような配慮や工夫が必要になる。
あさば / 上がり框
旅館「あさば」の場合は、暖簾をくぐって館内に入ると、そこには堂々とした上がり框が設けられていて、客は否応なくそこで靴を脱ぐことになる。しかし丁寧に用意された手すりや靴脱ぎ用の椅子、そして足置きなどが整然と配されていて、そのような心配りが来場者の気持を和らげる。靴を脱いで上がる床は、二段のステップとして設計されていて、最初に踏むのは白木の床、その次のステップは畳である。要するに空間の格の切り替えが二段階になっている。隅々まで掃除の行き届いた畳の空間が待ち受けていることによって、来場者は明らかに、より清浄な空間へと足を踏み入れたことを印象付けられる。清潔な空間へいざなわれたと感じさせることは、もてなしの端緒であり、この旅館はそれを玄関で晴れやかに実行しているのである。
べにや無何有
一方、「べにや無何有」の場合は、旅館ではあるがロビーや図書館などは下足の空間とし、個々の客室の上がり框に「靴脱ぎ石」とでもいうべき四角い石を配することで、内外の結界が演出されている。一段上がって足を踏み入れる床は、黒光りする木の廊下である。床の間のある座敷は畳敷きで、ベッドルームやクロークは板張り、休息用の籐椅子が並ぶ窓辺の空間は竹の床となっており、足元からさりげなく空間の転換が示唆される。床の素材で、上質な空間への導入が印象づけられたのち、室内に入った客は、室内着として用意された浴衣に着替えることで、愉楽の空間に足を踏み入れたという心理状態になる。
客室から、大浴場やレストランへと出かける場合には、靴脱ぎ石の上にあらかじめ準備された草履への履き替えが自然に促され、やがて客室係が脱いだ靴を下駄箱に納めるので、客は滞在中、履いてきた靴のことを忘れ去る。すなわち、もてなしの空間への導入が、靴脱ぎと、履物の変換で演出されているわけである。
あさばも、べにや無何有も靴を脱いだ直後には、スリッパのような履物は用意していない。旅館という異空間に入った後は、草履や、あるいは庭や濡れ縁に出るための異なる履物が用意されることになる。
べにや無何有
ホテルの場合には、催事場や、和式以外のレストランがホテル内に存在するため、装いの一端を担う靴を、入り口で脱がせる方式は難しい。靴脱ぎをもてなしの一環として捉えるなら、べにや無何有のように客室の入り口で、ということになる。この場合、上がり框を設けるとインルームダイニングに用いられるワゴンの、室内への出入りに支障をきたすことになる。しかしながら、ワゴンに拘泥することなく、客室での食のあり方や給仕作法に工夫を凝らすことができるなら、床の段差と靴脱ぎによって、客室を清浄な快適空間として印象付けることができるはずである。
また、浴衣や室内着で過ごせるリラクゼーション空間と、公共ゾーンの峻別を丁寧に設計していくことも重要である。室内着や履物の切り替えは、客の心理の切り替えを促す要点であり、床の切り替えを並行して行うことで、日本式のラグジュアリーが自然に発露されていくと思うのだがいかがだろうか。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
018
安息のかたち
安息をいざなうものはなにか。例えばソファ。カウチとかカナペとか、呼び方は国や地域によって異なるようだが、柔らかい背もたれや肘掛けがあり、これにゆったりと座ったり横たわったりするととても心地がいい。椅子の文化が日本にもゆきわたり、一般の住居におけるリビングルームの主要家具といえばもはやソファになるのかもしれない。そう言う意味ではホテルにおいてもソファ、すなわち、ゆったりと腰を下ろして休む家具のあり方は重要である。ただこれについては次の課題とし、ここでは「湯が沸いていること」について触れたい。風呂のことではない、お茶を楽しむ湯が準備されていることについて。
客室に通されて、まず何をするか。一晩かふた晩、あるいはもう少し長い逗留か、いずれにしても、しばらくの自分の居場所が手に入ったのであるから、ひと安心。荷物をしかるべき場所に置き、コートや上着をクローゼットのハンガーにかける。そういう局面でのクローゼットやハンガーは部屋の印象を作る上では大事だが、より気の利いたもてなしを考えるなら、温かいお茶を飲んでもらうべく、室内にいかに湯を準備できるかを考えてみてはどうだろう。
コーヒー、紅茶、煎茶、ほうじ茶、玄米茶、抹茶、昆布茶、ジャスミン茶、龍井茶、鉄観音茶、ハーブティ……。ひと息つくためにお茶を飲むのは世界共通の習慣であり、その分、茶の種類も、淹れ方も、道具も様々である。日本であるから緑茶、などという寂しい発想ではなく、お茶の多様性を、客の嗜好にあわせて自在に楽しめる用意を考えてみる。
想像していただきたい。部屋には「水屋テーブル」というキャビネットがある。ここには冷蔵庫やコーヒーメーカー、様々なお茶が楽しめるカップやソーサー、そしてミニバーなどが効率よく格納されている。側面も扉もテーブルトップも極めてシンプルな木製であるが、大きくてフラットな天板の端には四角い凹みが二つある。一つは湯の沸いている釜が頭を少し覗かせている「炉」のようなもの、もう一つは極小のシンクで、その脇にミニマルな水栓金具がついている。つまり、湯と水と最小限の排水がしつらえられている。
テーブルには椅子が置かれてあり、客はここでデスクワークができる。今日、タブレット端末やパソコンを落ち着いて開く場所というのは案外重要で、仕事を忘れるとか、電波から逃れるなどということが、決して癒しを生むわけではない。パスワードなしでさっとネットに接続できる環境こそホテルには不可欠である。今日、仕事と休息は不可分だからである。投資家はクルーザーの上でも株価を見るし、物書きは食事に出かける前の数分で、原稿を一つ書きあげる。仕事は労働ではなく自己実現の糧であり、生きていく張りでもある。そのようなONとOFFを同時に持ち込む場所が今日のホテルなのである。
もちろん、このテーブルは仕事をするだけの場所ではない。キッチンが今日、調理という労働の場だけではなく、花を生ける空間や、カフェやホーム・バーに変容したりするのと同じで、このテーブルは多様なお茶を楽しめるカフェ機能を備えた書斎なのである。
炉の底にはIHのヒーターが組み込まれていて、お湯は常に適温に制御されている。茶釜、あるいは鉄瓶はごく微かな湯気をたてている。もしそれが茶釜なら、脇に竹の柄杓を置いてみるのも面白いかもしれない。茶の湯に全く興味のない人も、竹柄杓の使い道くらいは想像がつく。この竹の柄杓と沸いている湯は、安息の異界への扉としての役割を果たしてくれそうではないか。
ソファにベッド、ライティングデスク、壁際のキャビネットに格納されたミニバーなど、どこのホテルにもある設備に、客は食傷気味になっている。仕事をする人にも、愉楽に身をやつす人にも、程よく沸いた湯の待機は嬉しいはずである。日本式ラグジュアリーは、そんな安息のかたちとして発揮されるかもしれない。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
019
空間の多義性
日本の空間は自在性に富んでいると言われているが、現実の住空間はどうだろうか。布団をあげて押入れにしまうと、そこは何もない畳の間になり、そこに折りたたみ式のちゃぶ台を出して家族で食事をする。昭和の半ば過ぎまでは、庶民の暮らしぶりは確かにそうであった。したがって、日本の畳の間はベッドルームにもダイニングルームにもなると聞かされ、なるほどと思った記憶はある。しかし多くの日本人はそういう暮らしを続けることを選ばず、「nDK」、すなわちキッチンとダイニングルームを、他の多目的な部屋と機能的に区分することが習慣化され、やがてリビングルームやベッドルームを独立させる方向に進んできた。
東京の一等地に建つ最高級の高層マンションの間取りは、さぞ独創的かと思えばさほどではない。ヨーロッパ風というよりもはや無国籍風とでもいうべき、ベッドルーム、リビングルーム、キッチン、バス、トイレといった基本的な空間言語が、広いか、豪華か、たくさんか、という作りになっている。歩いて入れる豪勢なクローゼットやワインセラーがあったり、風呂にサウナが付いていたりと、贅沢さの工夫は随所に見られるが、インテリアとしての独創性はない。おそらく人々は、独創的な空間に住みたいとは思っておらず、常套的、常識的な空間に住む方が気楽で心地よいと感じている。だから、住空間は、クリエイティブであるより普通である方が落ち着き、差別化のポイントは、規模や豪華さとして表現してほしいのかもしれない。
確かに「起きて半畳、寝て一畳」という言葉通り、最小限の空間があれば人は寝起きできるわけで、長年かかって練り上げられてきた生活空間の形式に異を唱えるのは、本質を見ないで目新しさを追い求める、さもしい未来主義のなせるわざかもしれない。
しかし、日本であるなら、つまり畳の間の自在性を伝統とする文化を下地に持つ文化圏であるなら、キッチン、ダイニングルーム、ベッドルームというような欧米の定型的な空間ボキャブラリーを一度ゼロに戻して、もっと多義的なあるいはもっと自在性のある空間の再編集をしてみてもいいのではないかと考えるのである。
MUJI INFILL カタログより
たとえば「寝る」という営みに対応する空間を考えてみるとどうだろう。「睡眠」は大事であるから、安らかに眠るための空間や機能を備えた家具が考案されてきた。欧州では「ベッド」が考案された。これは、横になると快適なクッション性のある寝床が、床から50〜60cm持ち上がった場所に設えられる装置である。ベッドにはヘッドボードという垂直板が頭の側につくことが多いが、これはおそらく、頭部を守る安心感のようなものを醸成し、また起き上がって座る時の背もたれとして機能するものであろう。寝床は体が沈み込むように柔らかいものから、敷き布団一枚程度の硬いものまで多様である。眠るという単機能に対応するなら、ベッドはとてもよくできた家具である。
しかしながら、人は眠るに至るまで、あるいは目覚めた後の時間に何かを行うことが多い。ロボットではないので、横になってスイッチをオフにすると眠りに入るというものではない。目覚ましのタイマーをセットし、携帯電話を充電用のコネクターに接続し、ブログをひとつ書いたり、友人にメッセージを送ったり、明日のスケジュールを確認したりと、結構忙しい。さらに眠気がやってくるまでの間、歴史小説の続きを読んだり、YouTubeを見たり、寝酒を飲んだりと、案外様々な活動を行う。また、起きた後も、スマホでニュースやメールをチェックしたり、起き抜けのコーヒーを飲んだり、ヨガのポーズをきめたりと、目覚めの営みも少なからずある。ただ目を開き、起き上がって寝具から抜け出すだけではない。
MUJI INFILL カタログより
そんなことを考えつつ、寝る前や起きた後の営みにこたえる多義的な家具をデザインしてみた。これは部屋の壁に付けて置くベッドではなく、部屋の真ん中に独立させて置く、アイランド型のベッドで、多方向から使えるように工夫している。ヘッドボードの上は、平らなテーブル面を持ち、ベッドの方からも、その逆からもテーブルとして使える。ステップの部分には、ものを置いたり腰をかけたりもできる。布団とシーツを剥がせばソファのようにも使える。要するに多義性・多機能を持った空間が、この家具一つで出現するのである。極論すれば、狭い一部屋であっても、周囲の壁を無駄のない壁面収納にして、これを部屋の真ん中にぽつりと置くだけで、暮らしの営みにほぼ対応できる。
MUJI INFILL カタログより
ホテルなら、コスト・パフォーマンスが求められる都市型のビジネスホテルに利用できるし、ゆったりとしたリゾート空間に新しい寝具としてこれを置いても面白いかもしれない。先の章で紹介した水屋テーブルにはカフェや書斎の機能を併設することもでき、これ自体も多義的であるが、このベッドと合わせて使うなら、これまで見たことのない空間言語が生まれてくるのではないかと思うのだがいかがだろうか。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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垂直と水平
人間の作る空間は垂直と水平でできている。立つ、という行為が固い平面と重力によってもたらされているからであろう。日本の建築空間は、竪穴式住居まで遡ると平面はやや丸いが、民家も寝殿造りも書院造りも数寄屋造りも柱や梁の構造は四角い。障子や襖などの内装も桟の格子や塗り縁といった輪郭線が多く、ひたすら四角い。もちろん四角いのは日本の空間に限ったことではない。モダニズム建築をリードした二巨頭、ル・コルビュジェの建築もミース・ファン・デル・ローエの建築も、例外もあるがほぼ四角い。四角は合理性から導かれるかたちなのだろうか。
「4」という数理に導かれるかたちはとても不安定で、自然界ではめったに発現しないそうだ。安定するのは「3」である。椅子も三脚だと安定するが、四脚になるととたんにガタガタと不安定になる。ミツバチは六角形が好きだし、蜘蛛の巣も四角いものは見たことがない。完璧な立方体をした鉱物の結晶もなくはないが非常に稀である。しかし人類は四角をとりわけ好む。これはなぜだろうか。
少し「4」から世界を眺めてみよう。冷静に周りを見渡すほどに、人類は自分たちの住まう環境を四角くデザインしてきたことがわかる。起伏のある有機的な大地を四角く区画し、直交する格子状の街路を設け、そこに四角いビルを無数に建ててきた。ビルの入り口は四角く、四角いエレベーターは垂直に昇降する。四角い廊下を直角に曲がって、四角いドアをあけると四角い部屋が現れる。そこには四角い家具、四角い窓が配されている。したがって窓の外の景色も四角くトリミングされている。テーブルも棚もテレビも、それを操作するリモコンも四角い。四角いデスクの上で四角いパソコンの四角いキーを打ち、四角い便箋に文字を出力する。その便箋を入れる封筒も四角く、そこに貼る切手も四角い。そこに押される消印は時に丸いけれども。
なぜ人類は人工環境をこんなにも四角くしてきたのか。それはおそらく、人間の身体に由来するのだろう。人間の目は横に並んで二つあり、身体も目だけでなく他の感覚器官の配列も左右対称にできている。この身体の前提が、垂直と水平を受け入れる上で重要だったのかもしれない。しかし、サルもゾウも身体の対称性は同じこと。人間の特徴はさらに直立歩行をし、空いた両手を用いることにある。
おそらく直立歩行を始めて自由になった人間の手が、直線と直角を探り当てたのではないかと考えられる。直線や直角は、二本の手を用いれば、比較的簡単に見つかる。バナナのような大きな葉を二つに折ると、その折れ筋は直線になる。その折れ筋をそろえるようにもう一回折ると、直角が得られるのである。その延長に四角がある。つまり四角とは、手を使うことで手繰りよせられる最も身近な数理あるいは造形原理だったのである。だから最先端のパソコンもスマホも、そのフォルムは古典的なのだ。そういえば、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」に出てくる叡智のシンボル「モノリス」は黒くて四角い板のようなものであった。
マンホールの蓋は、四角ではなく丸である。もしマンホールの蓋が四角だったら、蓋はマンホールの穴の中に落ちてしまう。だからマンホールの蓋は丸くなくてはいけない。ボールも丸くないとボールゲームは成立しない。丸についてはここで詳しくは言及しないが、同じ意味で紙は四角くなくてはならない。丸いと無駄が発生する。紙は縦横のプロポーションが1対√2の比率に設定されていて、何度折っても縦と横の比率は同じになるように設計されている。
このような原理をかなり生真面目に徹底しているのが、日本の空間ではないかと僕は思う。欧米の空間は、垂直方向への志向は確かにあるが、教会の建築に顕著なように、そこに相当に曲線的な要素が加わってくる。アール・ヌーボーやアントニオ・ガウディの建築、あるいはザハ・ハディドやフランク・ゲーリーの建築を持ち出さなくても、西洋文化の中には三次曲面が溢れている。家具の基本は西洋においても四角が基準であるが、時になまめかしいほどの曲面を持つ革張りや布張りの椅子やソファが出現し、これがインテリアの中心を作り出していることも少なくない。このような三次曲面のグラマラスな家具の魅力を効果的に空間に響かせるには相当に大きなボリュームが必要で、日本の小ぶりで四角い座敷にはうまく収まらない。
今日の世界が三次曲面で溢れているなら、日本はむしろ、垂直水平に徹してみることが、独創性の探求において有効ではないかと思う。シンドラー・ハウスについてはすでにお話ししているが、シンドラーハウスの家具は、いずれも垂直と水平を上手に使っており、書斎デスクやソファ、椅子といった、従来の日本家屋にはない家具が、シンドラー自らの設計で実現していて、これが僕にはとても興味深く感じられた。
屋根や廂の低い、四角い空間の中では、垂直と水平の原理で設計された簡潔な家具がよく映えるように思われる。特に、余白を考慮し、ミニマルな構造が生み出す「間」に意識を通わせつつ、垂直と水平を追求していくことで、新しい空間言語、つまり新しい家具を生み出す余地は、今日においても、まだ十分にありそうに思われる。
写真は北京で開催されたHOUSE VISION 2018に出展した展示ハウス「Edge- Zero」である。中国の「有住」という住宅の内装会社とのコラボレーションで、僕が設計を担当したものだ。約70平米という限られた空間を、余すところなく高効率に使いきることを前提に考案したものである。壁面は全て収納にあて、家具は四方から利用できるものをアイランド型に配置する。家具に正面性を持たせないで、あらゆる方向から利用可能にすること、つまり背面をなくすことで限られた空間を効率的に活用できるのである。
これは住居として考えたものであるが、ヴィラ・タイプのホテルの客室として見ることもできる。手前を開放的なテラスとし、機能的な室内と、開放的な屋外の関係をつなげて、素材を徹底的に簡素にしていくと、先に紹介した「陽の家」になる。素材や仕上げはいかようにも贅沢に作れるが、削ぎ落とした垂直・水平の構造の中に、日本的ラグジュアリーの種は潜んでいるように思うのだ。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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隅とへり/畳・ふすま・障子
精緻な技巧で見るものをうならせるのも日本なら、虚をつくほどの簡素さで人々のイマジネーションを湧き立たせるのも日本である。技の巧緻や華やかさについては世界の個々の文化に、それぞれ見るべきものがあるが、一見何もない空っぽの空間を、人々の多様なイメージの受容器として機能させていく手法は、室町後期以降に形成されてきた日本独特のミニマリズムである。これについてはまた折に触れて述べるが、そういうイメージの修辞法が生きている環境であれば、人をもてなす空間言語はミニマルに極まっていることが重要である。
しかしながら簡素・簡潔な空間は、ともすると、平板で工夫のない、貧しいだけの空間に見えてしまう。ミニマルな空間は、最小限を志向することを通して美をなそうという意識が肝要で、それが細部までゆき渡っていることではじめてイメージの喚起力を発揮するのだ。空っぽに見える枯山水の石庭も、ただ白洲に石を点在させているだけではない。石と石の間、その周囲の苔の生やし方、石のへりの砂紋のあしらい、さらに人為を感じさせない掃除の仕方が大事なのである。
そのように、突き詰めて生み出される簡素簡潔な空間にラグジュアリーを呼び込む要点となるのが「隅」と「へり」である。
たとえば、畳敷きの座敷において、その特徴をなすのも隅とへりである。畳は、1:2という比率で出来ている。布製の「縁」が長辺の側だけについていて、床に置き並べられると畳と畳の境目は「縁」で仕切られることになる。おそらくこの「縁」の幅は、歴史の中で様々に試されてきたはずであるが、この幅に落ちついているということは、このバランスに日本人の美意識が染み込んでいるはずである。座敷においてはこの縁が、独特のリズムを生み出している。座敷での立ち居振る舞いにおいては、この縁を踏まないで歩くのが作法と言われて、無用な緊張を覚えることもあるが、それはそういうルールが先んじてあるからではない。畳の縁のラインが生み出すリズムに、無意識に身体が感応し、自ずとリズムの破壊を避ける心理が生まれてきたからだろう。畳の縁のリズムは、ふすまの縁や、障子と連携して、和の空間に内在するモデュールを、知らず知らず、その空間の中の人間に伝えていく。
比較的狭い小間になると、縁の線が邪魔に感じることもあり、縁なしの「琉球畳」と呼ばれるものもあるが、これは畳の目がぎゅっと細かく詰まっていて、通常の畳とは異なるテクスチャーを生み出す。したがって、縁のない目の細やかな琉球畳の空間は、どこか「休符」のような余白を生み出す点が面白い。
つまり畳の縁の幅やリズムは、藺草によって編まれた畳の目のピッチや大きさにも呼応しているのである。ル・コルビュジェが日本の空間を見て「線が多すぎる」と感じたのはある意味では正解で、畳の目の「肌理」に始まり、畳の縁、ふすまの縁、障子、そしてその秩序に微妙な抑揚を与える床柱などを見て、空間が内包する情報に過剰なものを感じたのだろう。確かに簡素ではあるが、リズムは細やかで過剰かもしれない。
俵屋旅館
室内空間の間仕切りとして用いられるふすまも、縁の幅は決まっていて、多くの場合は塗り物、すなわち漆で仕上げられている。本格的なふすまは、内側の木の骨に、和紙が幾重にも貼り重ねられたものであり、結果として、内側からの張りがふくよかに感じられる風情となる。そして湿度とともに、ふすまは微妙にその表情を変える。晴れの日はぴんと高い緊張感を持ち、雨の日は室内の湿気を吸い、こころなしかふっくらと見える。
このような「張り」の様相で息づくふすまを開け閉てする手掛りとして「引き手」が絶妙の位置にはめ込まれている。黒く塗装された金物の引き手と、艶やかな漆の縁。手を触れていいのはここだけである。
室内の装飾としてふすまに描かれた水墨画や、金箔を貼った上に花鳥風月を極彩色で描く濃絵(だみえ)などの障屏画も日本の美の一端であろうが、僕は何も描かれていない白いふすまを美しいと感じる。雲母で図柄を刷り込んだ、控えめで優美な襖もあるけれども、白くたおやかなふすまに「塗り縁」と即妙の意匠の「引き手」がぴしりと収まっている風情は、心身が清まるようで心地いい。和の空間のリズムが感覚の底まで届いてくるようだ。
畳表の目に始まり、畳縁と襖の織りなすリズムは、空間を垂直と水平に切り分けていく通奏低音である。これが室内に静かに響いているのである。
俵屋旅館
外から光がさす周囲には、光を濾過し面光源へと変容させる障子が巡らされている。和紙の白さを均等に分散するかのような格子状の桟や、障子紙の継ぎ目が、空間に小刻みなリズムを重ねている。桟のピッチや構成は実に様々であり、桟のリズムを抑えた太鼓張りという技法や、横桟を無くして縦桟のピッチを狭くしたものなど、障子の桟のリズムは多様なのだが、これらはむしろ枝葉の技巧である。要は外からの光を、和紙の繊維で濾過して淡い発光面となす点に障子の命脈はある。
一方で、庭と座敷の境界は、障子が開け放たれ戸袋に収まっていくことで消え去り、座敷は外部とひとつながりの空間となる。その際に、障子や雨戸の敷居がデコボコしていては様にならない。戸をはめて滑らせる凹みは、開け放たれた状態においてはその存在が感じられないよう、浅めにできている。
俵屋旅館
庭は開口部によって綺麗にトリミングされた景色としてそこに立ち現れることになるが、張り出した屋根庇が上辺の位置を低く抑え込み、庭の光景は横に広く展開することになる。その際に、風景のフレーミングをさらに絶妙に調整するファクターとして、庭へと張り出す縁側と、庇から吊り下げられる簾がある。縁側と簾という「へり」が、庭のトリミングの仕上げとして機能し、単なる視覚性をこえた、不思議な空間の連続と奥行きを彩ることになる。
冬の寒さの中で、仕切りを開け放つことのできない状況では、障子の下部を上方に滑らせて持ち上げると、そこだけ透明ガラスが嵌められて外の風景を堪能できる、「雪見障子」なるものもある。雪が降り積もっている庭の景色を、室内から眺める情景を想定した名称かもしれないが、実に情緒のある工夫である。
このような「隅とへりの輻輳空間」が和室である。したがって、畳の間の上に、ベッドやソファを配する感覚が、いかに破壊的かを感じていただきたい。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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隅とへり/素材の境界・テクノロジーの境界
もうひとつ、空間の質を左右する大事なポイントがある。それは「床と壁の境目」、すなわちミニマルな空間の切れの良さを左右する境界である。
「巾木」というものをご存知だろうか。床と壁の境目における壁側に、補強材として張り巡らされる巾5cm~10cm、厚さ5mmほどの細長い板である。掃除をする時に、用具が壁に接触することは避けられないので、長年のうちに壁の下端部分に汚れや傷みが生じてしまう。たとえば、白い漆喰壁と木の床の組み合わせを想像していただきたい。箒のみならず、今日では掃除機の先や、掃除ロボットが当たって、知らぬ間に壁の下端を傷めてしまうことになる。したがって、壁の下端の損傷を防ぐために「巾木」が巡らされることになる。
ただ、この巾木は、床と壁の境界線を曖昧にし、本来ならそこに現れてくるはずの素材の「競い」、つまり対比効果を、弛緩あるいは堕落させてしまう。もちろん、放っておくと壁の下端は傷んでしまうので、これを回避する工夫が、当然のことながら必要になるのであるが、このような、隅やへりに対する「始末」や「工夫」の集積が、日本の空間の味わいを生み出しているのだ。
巾木には、板の厚み分だけ壁から飛び出させる「出巾木」と、巾木の幅はそのままに、壁の奥に巾木を引っ込ませた「入巾木」という処理の方法がある。入巾木の場合、引っ込む寸法は様々だが、そこは必ず陰翳となり、壁はその分だけ宙に浮いて見え、壁の下端がぴしりと際立つのである。
壁のコーナー部分で、くの字に出ている部分を「出隅」といい、逆に入り込んだ隅を「入隅」という。「入巾木」を用いると、この出隅や入隅がきれいにおさまることは、容易に想像いただけるはずである。ただし、入巾木は、設計のはじめから計算しておく必要があり、手間もコストもがかかる。しかし手間暇をかけて計画していくことで、壁の下端に、凛と胸のすくような緊張感が生まれてくるのである。
日本の数寄屋と呼ばれる普請の様相は、こういう細部にこそ情熱を注ぐ、知識豊富な施主と、その注文に応える高い技術を持った大工や職人たちが作り上げた文化である。コンクリートが建築の主流をなし、コストと合理性に建築が組み込まれていく中で、徐々に失われつつある美意識であるが、まさにこのような感受性の連鎖の中に日本のラグジュアリーは息づいているのである。
さらに言えば、今日の室内空間に必ず存在する、電気の取り出し口や、ハイテクとのインターフェイスを、いかに処理するかも重要である。せっかく心地のいいリズムを持った空間を作り上げても、テクノロジーとの接点の造作を誤ると空間は一気に台無しになる。
このような細部への言及は、まるで重箱の隅をつつくような、という印象を持たれるかもしれないが、重箱の品質が「隅」に宿るのだとしたら、そこは大いにつつくべきである。数寄屋の感受性をテクノロジーとの接点にもとめていくことは、今日的かつ未来的な空間設計の要点である。
MUJI HOTELの客室
テクノロジーの進展で激変している今日の住環境においては、「ワイアード」つまり電気コードで繋がっている環境が当たり前である。したがって人々は、通信ケーブルや電気コード類の露出にすっかり寛容になってしまった。しかし、理想を言うなら、テクノロジーとのインターフェイスは、使いやすさを最大限に考慮しつつも、それを視界から消すほうが気持いい。技術の進化は目に見えるワイアードをなくす方向に進むと思われるが、まだしばらくは、物質的な「ワイアード」の処理を考えなくてはならない。
物陰に潜ませるか、カメレオンのように環境に擬態させるか、その方法は様々あるだろうが、日本の空間のラグジュアリーは、何もないほど簡潔に、隅とへりに気が通っていることに宿るのである。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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水と湯/火山列島の恵み
さて、しばらく寄りの目で細部を見すぎたかもしれない。このあたりで少し、ぐっと引いた目で日本の国土を眺めてみよう。
日本列島はユーラシア大陸から引きちぎられた大陸の東岸が列島として連結してできたものだそうだ。そして、太平洋プレートとフィリピン海プレートがせめぎあいつつ大陸のプレートにぶつかり、下方へと沈み込む軋轢で海底が隆起し続けていることで成り立っていると言われている。
Illustration : 水谷嘉孝
二つのプレートが大陸の下に沈み込む時に、一緒に沈む水分の作用でマグマができ、海溝に平行に火山帯ができる。プレートは毎年約8㎝ずつ休みなく移動し、大陸の下に沈み込み続けていると地質学者は言う。その軋轢によって造山活動が起こり、ひずみを解消するために地震が周期的に発生する。溜まったマグマも火山から時折噴出する。百数十年という周期で大きな地震が巡ってくるのは恐ろしいが、地殻の運動によって生まれ続けている列島であるから、その運命から逃れるわけにはいかない。千数百万年という時間のなかで運動するプレートテクトニクス的な自然と、九十年にも満たない人間の寿命を比較するなら、人が生きる時間は、悠久の自然のほんの刹那に過ぎないことを思い知らされる。人智の及ばない力におののきつつも、自然の摂理を受け入れ、宇宙の瞬きの中を、「生」を自覚しつつ生きる尊厳と幸福を噛みしめていくほかはないのだ。
造山活動で生み出された日本列島の、国土の約70%は山である。大洋を渡り水分をたっぷり含んだ季節風が日本の山々にぶつかることで、豊富な雨や雪がもたらされる。季節によって吹く風の向きが変わる温帯モンスーン気候であり、初夏から秋にかけて赤道付近で発生する台風は、時折日本列島を縦断する。豪雨はたしかに脅威であるが、この雨によって豊かな水を得て、山々は常に樹々に覆われ、樹々はその根に膨大な水を蓄えることができる。台風による災害は深刻な事態であるが、高層ビルも、道路もクルマも、食洗機にかけられたようにピカピカになる、台風一過をひとつの禊としてとらえる感覚もまた、この国の情緒の一端かもしれない。
Ex-fomation 皺「Complex trail—日本の川 日本の道—」内田千絵・高田明来
一方で、急峻な山から海に向かって水が流れ出すため、国土はまるでヘチマの筋か毛細血管のような河川網で覆われている。その水質も独特である。水流が速いため、地中に染み込んで岩石に濾過される割合も少なく、カルシウム分を多く含まない軟水は、透明な無数のせせらぎとなって山を下る。澄んだ水は太陽光を川床まで通し、そのおかげで川底の石には苔が豊富に育ち、鮎や山女、岩魚といった苔を食べる川魚の生育の背景となっている。また、森林のミネラル分を多量に含んだ水が海にもたらされるので、沿岸部には多量のプランクトンが発生し、列島は素晴らしい漁場に囲まれることになった。
この水はまた「豊葦原の瑞穂の国」と太古から称されてきたとおり、水田による稲作に適した風土を育んだ。大陸から伝わった稲作は、日本に深く根づき、人々は平野のみならず山間部の傾斜地まで開墾して棚田を作り、稲を育ててきた。この稲作こそが、日本の地域文化を育んできたのである。日本人にとっての米は、主食である以上に、四季折々の営みを脈動させる要因そのものである。春に種を播き、苗代で丁寧に育てた苗を水田に植え、夏は草取り、秋は稲刈りをして、自然の恵みを収穫し、暮らしの安寧を得る、そんなリズムが、年中行事や祭りを発生させてきた。自然を畏れ、うやまう心も、稲作のサイクルやリズムを通して醸成されてきたと考えられる。脱穀した稲は、藁として日用品の素材となり、冬は藁を用いた日用品づくりに人々はいそしんだ。
要するに、日本人の暮らしに稲作が取り入れられたというより、稲作という営みの中に日本文化が産み落とされたのだと考えた方が実態をとらえている。稲作は「農」という生産をこえて、日本の生活文化の根幹を作っていくリズムそのものであり、その背景には列島の山河が生み出す豊饒な水があったのである。
一方、火山帯の上にある列島であるから、いたるところに温泉が湧き出している。今日、日本人はこれをあたり前と感じている節もあるが、冷静に世界を見渡しても、日本と同じくらいの頻度で温泉に出会う国は少ない。プレートの配置を見るなら太平洋岸の国々、例えば南米のチリなどは、地震も火山も温泉も日本並みだと想像されるが、わざわざ地下1000mから温泉を掘り出すようなことはしていない。
アイスランドは日本とは真逆に、プレートが国土の真ん中から湧き出し、東西に分かれていく場所に当たっていて、やはりマグマが活性化する火山帯の上にある。したがって温泉の数も多い。しかしいずれも天然に湧き出したものを利用するこぢんまりとしたものだ。ひとつ例外なのは、地熱発電の副産物としての湯を、野球場くらいの広大な温水プールとして活用する「ブルー・ラグーン」という浴場である。ここでは地下で熱せられた水が水蒸気となって噴出する力でタービンを回し発電を行っているわけだが、一緒に噴出してくるお湯は、珪石をふんだんに含んでいて白い。これを利用した広大な温浴プールの景観には圧倒される。そういう点を考えるとアイスランドは日本と肩を並べる温泉国なのかもしれない。
活火山や、高い山のあるところは、プレートテクトニクス的な意味でのエネルギーのたまり場であり、スイスアルプスにも、インドネシアにも温泉は湧き出している。かつてローマ人たちは火山帯の上にあるイタリア半島の上に国を作り、壮麗な大衆浴場を建設して温浴文化を謳歌していた。これは漫画「テルマエロマエ」が、ローマ時代の温泉を、日本の温泉と対照させて展開する奇想天外なストーリーとして紹介している通りである。温泉は古来より文明社会において大事にされ、人々を癒してきた。だから日本こそ世界に冠たる温泉国と我田引水の論を構えて、その実例を多様に展開してみせようとは思わない。
もちろん、日本では温泉が長らく愛され続けてきたし、露天風呂をはじめとする温泉文化も多種多様に発達してきた。湯治場の文化が生まれた背景には、稲作による生活サイクルも大きく影響しており、湯を公共物として汚さず管理するマナーやノウハウも深化していると考えられる。しかしながら、世界の人々をもてなす新しい資源として、日本におけるラグジュアリーとは何かを考えるにあたって、僕はもう一度「水」と「湯」のもたらす愉楽について、一から研究し直してみる必要があるのではないかと考えるのである。
これまでの温泉文化に気持よく浸り込んでいる時ではない。ポスト工業化を目指すこれからの時代に、日本列島という稀有な風土を「資源」と捉えて、文化的オリジナリティを最大化する要因として、温泉の可能性を未来へと投じてみたい。そういう意味での「水と湯」である。緻密・丁寧・繊細・簡潔を旨とする美意識、そして建築・デザイン・テクノロジーを掛け合わせたその先に何が見えるのか、今一度目をこらしてみたいのだ。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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ピーター・ズントーの「テルメ・ヴァルス」
ピーター・ズントーという建築家が、スイスのヴァルスという村に傑作の温浴施設を完成させた。1996年のことである。僕が初めてこの施設を知ったのは、デザイナーの八木保氏をサンフランシスコの仕事場に訪ねた時である。初対面の僕の眼の前に、八木氏はいきなり二冊の建築雑誌を置いた。どんなものに触発されているかを感応し合うことがデザイナーの挨拶であるかのような、出会い頭の一撃に戸惑いつつも、僕はそこに示された2つの建築に心を鷲掴みにされたのである。
一つはズントーの「テルメ・ヴァルス」であり、もう一つはヘルツォーク&ド・ムーロンという設計チームによる「ドミナス・ワイナリー」。当時注目され始めていたスイスの建築家たちの仕事であった。ヴァルスの温浴施設は、現代的なホテルのロビーが水没したかのような、見たことのない空間で、思わず目が写真に釘付けになった。ワイナリーは、りんご箱ほどの金属の網籠に土地の白灰色の石をぎっしりと詰め込んだユニットを、隙間なく精密に積みあげた建築で、ワイン畑に突如出現するミニマルな防波堤のような外観が鮮烈だった。石を詰め込んだユニットの隙間から漏れる木漏れ日のような光が、室内に乱反射する光景がとても美しかった。
その衝撃が大きかったせいで、遠くない時間の中でそれらを実際に訪ねたのだが、特に印象深かったのが、ズントーの温浴施設であった。ついでに、スイスやオーストリアに点在するズントーの建築をいくつか訪ね歩き、風土に由来する素材運用の説得力や、ミニマルで詩的な空間の息遣いに大いに感銘を受けた。運命的な感動というと大げさだが、ブログ002で取り上げた、スリランカのジェフェリー・バワの仕事にも通じる、その土地の魅力を来訪者に感知させる媒介としての建築のあり方に、心の芯が震えるように感じたのである。美術館でも教会でもなく、浴場なのであるが。
「テルメ・ヴァルス」は、スイスアルプスの牧歌的な風景の中に存在している。夏は牛の首につけられた鈴の音がカランコロンとどこからともなく響く、美しい緑に包まれた山岳地帯で、冬は完璧に雪に埋もれてしまう土地である。その丘陵の一隅に、超現代的な建築が突き刺さっている。建築の素材はこの土地でとれるやや緑がかった石を地層のように積層させたもので、床、壁、天井など、建築の主要部はこの石の積層でできている。その独特のテクスチャーが、ミニマルな建築をとても魅力的に見せている。
丘陵に貫入した建築の内部は洞窟の中のように仄暗い空間で、逆に外に出ている部分は屋外プールのように開放的であった。そのコントラストがまず面白い。ホテルのロビーが水没しているような、と感じたのは、四隅の見える閉鎖空間ではなく、隅や突き当たりがなく、常に奥へ奥へと続いていく迷路のような空間として、浴場が設計されているからである。
写真 : Pedro Varela / Therme Vals(https://www.flickr.com/photos/rucativava/ )
迷路のような空間を奥へと進んでいくうちに、行き止まりの小空間へとたどり着くのだが、それは時には天井の高い小さな礼拝堂のようだったり、黄色い花びらが無数にたゆたう別仕立ての浴室だったりする。サウナ室は黒くて重いゴムのカーテンを手で押し分けて入っていく仕様であるが、部屋の中央には人ひとりが寝られる大きさの直方体の石が置かれていて、そこに仰向けに人が寝ていたりする。サウナ室はこの繰り返しで、ゴムの扉は奥へ、また奥へと続いている。ミストで満ちた室内の明かりは天井中央からのダウンライト一灯であるから、宇宙人でも舞い降りてきそうな、ミステリアスな雰囲気であった。
おそらく建築家は、人がなぜ温浴施設で癒されるかについて、その心理を様々に想像し、古代から続く温浴施設をいくつも踏査したのかもしれないと直感的に思った。声高におしゃべりなどしてはいけないような、修道院のような禁欲的な印象すら、僕はこの空間に感じた。
シャワーも、コックをひねるとおとなしい量の湯が、いかにも管理された正確さで出てくる日本のシャワーとは違っていた。比較的大きなレバーを両の手をつかってひねると、想像を超えた高さから、意外なほど多量の湯水が、どさどさっと頭上に落ちてくるのである。意表をつく、痛いほどの量の湯水を浴びることで身体はなぜか活性化してくる。滝に打たれる感じとでもいうのだろうか。水という物体と人間の心と体の関係が巧みに計算されているようである。
写真 : Alamy
休憩室には、よくデザインされた美しい寝椅子が、一定の距離を置いてポツリポツリと並べられている。そのひとつに身体を横たえて正面を見ると、寝椅子が置かれているピッチで壁に小さな窓が穿たれていて、そこから屋外の景色が少し見える。スイスアルプスの山中であるから、全面をガラスにしても、素晴らしい景観が眼前に広がるはずであるが、あえて壁で風景を遮断し、薄暗い空間から小さな開口部を介して外をうかがうような設計になっている。
写真 : fcamusd / Therme Vals,Switzerland.(https://www.flickr.com/photos/_freelance/ )
他方、屋外プールのような温浴空間は徹底的に開放的で、天井もなく、冬はプーサイドに雪がこんもりと積もる。プールの底からは潜望鏡のような太い金属パイプが三本、忽然と水面に顔をだし、勢いよく温水を吐き出している。ここでも滝に打たれるように、湯を思い切り浴びることができる。
プールサイドに置かれた寝椅子も美しく、湯と水で癒された身体をここに横たえると、スイスアルプスの自然を、全身で享受できるような、至上の解放感を味わうことができるのだ。
僕はこの場所を、雪深い冬と爽快な夏に、二度訪れた。なぜかわからないけれども、ここに未来の仕事への啓示があるような気がして、温泉に入っても寝椅子に寝転んでも、それを満喫することはできなかった。その代わりに大きなヒント、あるいはエネルギーを、ここからもらったような気がしたのである。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
025
あるがままの湯
日本の温泉宿の魅力は鄙びた味わいであるが、その要素は案外と多彩で、魅力を抽出するのは簡単ではない。しかし日本のラグジュアリーを考える上では、自然の風化をほどよく受け入れる感受性は不可欠である。これは映画のセットのように、古色をつけて味わいを付加するようなものではない。ものの冷え枯れた風情や、作り込み過ぎない簡素な味わい、そして自然の贈与を素直に受け入れるおおらかさのようなものに価値を見出していく姿勢に、日本のラグジュアリーのヒントは潜んでいる。これを茶室や庭のような、作為の果てに見出すのではなく、温泉宿のような、ゆるく無造作にみえる営みや空間に見出していくことに意義がある。
そろそろ僕らは、茶室や庭から抜け出して、温泉宿に同じ真剣さで向かい合ったほうがいい。そこに大きな価値の鉱脈があるように思えてならない。現在日本に存在している温泉の中にも、なるほどと感心させられる、野趣を巧みに取り込んだ宿や施設はいくつもある。「低空飛行」で取り上げている秋田の鶴の湯、鹿児島の雅叙苑、群馬の法師温泉あたりが、野趣の系譜の本命であろうか。これは洗練やミニマライズではなく、むしろあるがままの自然への向き合い方によって生み出される快適さであり、ここに間違いなく日本式ラグジュアリーへの道筋が示唆されていると思うのである。
秋田の「鶴の湯」は、田沢湖に近い乳頭温泉郷というところにある。いい泉質の温泉宿がたくさんある場所だが、その中でも鶴の湯は傑出した存在だ。古くから湯治場だった施設を、現在の主人、佐藤和志氏が任されたのが1981年。露天風呂もない湯宿であったが、土地の魅力に感じるものがあったという。ここを管理するようになったある時、打たせ湯の小屋を潰し、改修しようと岩を少し動かしたところ岩の隙間から自然に湯が湧き出したそうだ。白く不透明な湯は温度も低めで、ゆったりと長湯を楽しめる。天然の地形に沿うように満ちた青白い湯の景観には人を惹きつけてやまない力がある。露天風呂の一部に張り出すように東屋が建てられているが、曲がりくねった材木で、急ごしらえに作られたような造作が景色に絶妙な味わいを加えている。秋田訛りで「適当に置いただけ」と佐藤氏はうそぶくが、よくできた茶室のようにさりげなく荒野の草庵を具現している。
ここの白い湯に体を浸すと、自然の恵みに体を預ける心地よさを存分に体感することができる。温泉の愉楽というものは自分の身ひとつで味わう快楽だけではなく、気のおけない友人達と、たまっていた思いを交換し合うのんびりした雰囲気にもある。鶴の湯の場合、男女混浴であることも、この解放感を生み出す一つの要因ではないだろうか。白い不透明な湯に身体を隠されている安心感が解放感を醸成しているのかもしれない。ここの湯に浸って語り合っている人々はいつ見ても実に幸せそうである。
古民家を移築した客室の設えは、風雅というよりむしろ粗雑ですらある。その程よい乱暴さが来訪者の心の構えを解いて楽にしてくれる。夏は草が奔放に生い茂り、冬は2メートルにも達する積雪で、宿は丸くこんもりとした雪で覆われる。その中に青白い天然の湯が幻想的に湧き出している。このような自然の発露を丸ごと宿の魅力に転換してしまうしたたかさがここにはある。露天風呂を抱く温泉宿としてこれを凌駕するものを見つけるのは簡単ではない。また、建築設計的なプロセスでこれを凌ぐものを作るのも難しいかもしれない。この宿は決して高級という分類ではなく、きわめて庶民的な位置付けで営業しているけれども、湯という天然資源を用いたラグジュアリーを考えるとき、常に頭の端に置いておくべき温泉のひとつである。
鹿児島の「雅叙苑」も、訪れるたびに感心させられる宿である。茅葺の古民家を移築して施設を作るさきがけとなった温泉旅館であるが、いまなおその魅力は衰えていない。後にTENKUという破格の空間を作り上げた田島健夫が1970年、実に半世紀前に作り上げた宿であるが、特筆すべきは、客室の中における温泉の構え方である。最近では個室温泉付きという仕様は当たり前になりつつあるが、ここは部屋そのものが、どこからが外でどこからが内か判別がつかないような不思議な構造になっている。鹿児島という温暖な気候のせいもあるのだろう、木製の床に、いきなり石の浴槽がどかどかっと大胆に据えられていて、その脇に丸く切り抜かれた床から樹木がにょきっと生えている。そこはもはや天井もなく、屋外なのである。室内であるのに、石造りの温泉が構えられていて、屋根のない部分もある。こうなると、屋外も屋内もない。個室温泉付き客室などでなく、客室付き露天風呂と考えた方がいいのかもしれない。だから寝たり風呂に入ったりという行為が自然に隣接してくる。ここにいると、心は徐々に原始人のように野性的になる。つまり田島健夫が提供するラグジュアリーは、人の中に眠っている野性を目覚めさせることかもしれない。人間の原感覚の覚醒に価値の源泉を見いだしていく、これは千利休も考えていなかった視点かもしれない。
雅叙苑では、屋内の通路や庭先に、ニンジンやこんにゃくが干されている。親子連れの鶏が人をおそれる風もなく歩き回っている。食事時になると、調理場から立ち上る煙が、狼煙のように、茅葺の屋根から外へとじわりと湧きあがる。夕食が終わる頃になると、青竹の筒でできた酒器が、囲炉裏端に刺されていて、程よく湯で割った焼酎が温められている。客はこれを自由に飲んでいい。つまり、ここには古来からの暮らしの知恵や自然の恵みが満ちているわけだが、宿の主は、そういうことを、無意識に呼び込んでいる風がある。湯のあしらい方、使い方も同じ考え方なのだろう。
群馬県の「法師温泉」は山岳地帯の山懐に抱かれた谷間にポツリと存在する温泉宿である。日本の山々はいかに水や湯が豊富であるかはすでに述べたが、この地も例外ではない。湧き出す源泉の上に、そのまま温浴施設が建てられている。
その建築は明治時代に建てられたものであり、群馬県を横断する上越鉄道の建設に貢献した代議士、岡村貢が情熱を持って作り上げた宿である。明治期に活躍した建築家、辰野金吾が設計した東京駅の駅舎に天啓を得た岡村が、その雰囲気を持つ建築を設計させたそうだ。浴場は、窓の上端が半円形をしていて、天井や窓から差し込む光はさながら教会のようでもある。大空間の浴場は田の字に区画され、それぞれの場所から源泉が湧き出している。ぬるい湯から普通の温度まで湯の温度が区画ごとに違っている。客は気分に応じて好きな温度帯の湯につかることができる。
さらに興味深い工夫として、それぞれの区画には、縦半分に割られた丸太が一本ずつ渡されている。この丸太は、自由に位置をずらすことができ、これに客は頭や足をのせ、湯の中で自由なポーズをとってくつろぐことができる。大空間のスケールと古い建築の窓や天井から差し込む光の美しさ、そして湧き出す透明な温泉の鮮度感も合わせて日本の温泉の白眉のひとつである。
山ふところに抱かれるという言葉通りの場所で、近くにある滝を見に、宿の下駄で出かけると、知らない間にヒルが素足に吸い付いていて驚かされた。谷間はとても静かで、音と言えば流れる水の音、あるいは山全体に響いている蝉の声だけ。蝉時雨は聞こえていても不思議と静寂を感じる。ここに来るとひたすら水と湯と自然に癒される。日本における温泉の発生を原点から考える場所として、ここも記憶に留めおくひとつではないかと思う。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
026
光る水面
ラグジュアリーとは何かという問いに答えるのは難しい。ランクや競争を超えた至高を追求する性向、あるいは「粋(すい)」という日本語も、いいところを突いているように思う。
このブログでもすでに触れている「べにや無何有」は、加賀山代温泉にある四代続く温泉旅館である。当主の中道一成氏は、先代までの団体客に向き合う経営から一転して、個室温泉付きの旅館に大きく舵を切った。結婚して女将となった幸子夫人と二人三脚で各地の温泉旅館を研究して歩き、建築家竹山聖に白羽の矢を立てて改装を依頼した。
はじめはロビーと客室4室だけの改装であったが、改装した客室と旧客室を間違えて予約したお客が、旧客室を見て泣き出すという現実に直面し、こういう客室を売ってはいけないと意を決し、全ての客室の改装に着手した。
この宿は、真ん中に自然な雑木林の庭を抱き、それを囲むように新旧の建物が並んでいるが、竹山聖はいずれの客室も、この庭に向かって開放感のある新しい和室として設計した。能登地方の珪藻土に藁スサを混ぜた壁の表情や、濃い色で簡潔に仕上げた天井、大ぶりな正方形の桟を用いた障子、そして窓近くの部屋の床に貼られた割竹など、大胆かつ緻密な和の空間がとても心地いい。これがきちんと維持管理されていて、訪れるたびに細部が磨かれていく。そんな空間に身を置くと、日常の些事にまみれて縮こまっている感覚が、解きほぐされ、洗われていくように感じる。
各部屋にある浴槽は、白木を用いたもので、部屋に応じて丸いものや四角いものがある。いつも感心するのは、浴槽に溢れんばかりに張られた湯である。部屋に通されて、窓の外を見ると、表面張力で膨らんだ湯が、浴槽の上面に庭の光を映して白く輝いている。大柄な自分がそこに入ると、いかにも大げさにざあざあと湯が溢れる。もったいないといえばそれまでだが、水と湯の国ならではの愉楽を感じる。どういう仕組みなのか、しばらくして浴槽を見ると、いつの間にか湯は再びすれすれに満ちている。このような贅沢は、近年の個室温泉というサービスにおいては常套的と思われるかもしれないが、継続的に生真面目に、その粋を目指そうという意志があるかないか。粋に達したものは、やがて自然に発見され、グローバルな文脈に出ていくことになる。
三重県の志摩にあるホテル「アマネム」は、外資が運営するホテルだが、日本のリゾートホテルの中では傑出して完成度が高い。このホテルの、内外の融通性についてはすでに述べたが、このホテルが客に供しているものは「静寂」である。紀伊半島の先にある志摩の海を望む高台は本当に静かだ。遠くに飛んでいる鳥の羽音が聞こえるのではないかというほど。全ての客室はヴィラ、すなわち独立した棟として敷地に点在しているのであるが、木製のサッシを開け放つと、部屋と屋外を仕切るものは何もなくなり、客室は志摩の海景と一体となる。まさに、建築によって仕組まれ、見立てられた風景と静けさである。
このホテルには、その境界が海や空に繋がるインフィニティ・エッジのプールがある。鏡面になったプールが静寂の光景を映し、しんと澄み渡った空気感を周囲にみなぎらせている。その完成度は秀逸であるが、決して緊張を強いる雰囲気ではない。ここにも、水あしらいとしての粋を感じた。
このホテルの温泉は、サーマル・スプリングと呼ばれているが、ごつごつした岩の温泉ではない。多段に階層性を持つ、実に広々としたモダンな温浴空間として設計されている。訪れたのは冬であったが、もうもうとした湯気の向こうに広がるスケールの大きな温浴ゾーンに圧倒された。確かに異国の目で日本の温泉の魅力を抽出し、再構成するとこういうことになるのだなと、腑に落ちた。
温かいサーマル・スプリングは、湧き上がる源泉の温度調節をしっかり行って、上手はほどよく温かく、下手はややぬるい。浴場の中に、東屋風の屋根のついた島のような場所があり、ここはタオル地に包まれたマットレスの床が置かれ、同じくタオル地のクッションが並んでいる。さりげなく飲料水も用意されている。湯に浸って解放された身体をバスローブに包んでここに横たえると、知らず眠りに引き込まれてしまう。
志摩という紀伊半島の果ての静寂を、水と湯と空間が一体となる風景として表現し得ているという点で、このホテルも記憶されるべきものの一つである。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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湿原と川
人工物ではなく、天然自然そのものを守り、それを高度な観光資源として活用していくことも、日本にとっては欠かせない視点である。最近あらためて訪ねて、確認したいくつかの地域について記しておこうと思う。
釧路湿原は、日本に残っている貴重な手つかずの自然である。6000年前、縄文人が住んでいた時代は、現在よりも温暖で水位も2〜3m高く、海であった。竪穴式住居の跡が周囲の高台にいくつも見つかっており、このあたりは暮らしやすい場所だったことがうかがわれる。やがて気温の低下に従って海水面も下降し、4000年ほど前に今の海岸線となった。内陸部は保水力の高い沼沢地で、湿原に生える葦や菅が、数千年の堆積を経て泥炭化し、広大な湿原が生まれたという。
先住民族アイヌは、自然の聖性を重んじてきた。その精神は今日にも受けつがれているようだ。釧路湿原に一歩足を踏み入れて感じるのは、静けさの中にある野性である。水は湧き出すままに流れ、葦は生い茂り、ヒグマも、オジロワシも、エゾシカも、本能のままにバランスを取っている。
塘路湖という湖からカヌーに乗って釧路川への川筋を下る。夜明け前に出発すると、霧が立ち込めた幻想的な湖面や川面の風景に出会えるが、昼間の風景もすばらしい。開発の手から守られているだけではなく、うかつに侵入すると危険な領域でもあり、そういう意味で人為の全く及んでいない自然の迫力を肌で感じる。
釧路湿原があるのは高齢化、過疎化が進む標茶という町であるが、未来資源という意味では、実に雄大で純粋なものをこの町は手にしている。湿原へは、ガイド付きのトレッキングやカヌーでのアクセスになるが、この自然をどんな方法で守りながら活用していけるか、日本の行方がこういう場所で試されていくのではないかと思う。
四万十川は、高知県西部を流れる清流である。もちろん川も綺麗だが、そこにある人々の暮らしと一体になった風景に、しみじみと考えさせられるものがある。特に注目したいのは「沈下橋」と呼ばれる橋である。
日本は台風の国であるが、高知はその玄関口のような場所で、自然の猛威から逃れるすべはなく、それを受け止めるべく暮らしの環境を整えてきた。四万十川は増水すると激しい濁流に変貌するのであるが、興味深いことに沈下橋は増水するとあっさり水面下に沈んでしまう。橋には水流の抵抗となる欄干がなく、橋の断面は飛行機の翼のような形をしているので、水に潜ってしまうことによって破壊から逃れる、という構造になっている。
この沈下橋が、上流から下流まで、つまり短い橋からとても長い橋まで60あまりある。その土地の人たちの暮らしの必要から必然的に生まれてきた橋であるから言わば環境デザインである。
最近は、しっかりとした橋脚を持ち、ずっと高いところに架橋され、増水にもびくともしない「抜水橋」がいくつかできたが、残念ながら便利さと引き換えに、四万十川と沈下橋がおりなす風景を壊しているというほかない。確かに、増水のたびに水に沈んで通れなくなる橋は、不便かもしれないが、自然の脅威を肌で感じつつも、川と近い距離で水に親しみつつ生きる暮らしに、四万十川流域の人々が心地よさや誇りを持っているのだとしたら、この景観を守っていくことの方が豊かと言えるだろう。
高知を拠点として活動しているデザイナー梅原真は、その点を熟知していて、高知県だけでなく日本の他の地域も啓蒙し続けている。最近では「しまんと流域農業」という言葉を掲げて、川の周辺に農地を見出して、米、野菜、茶、栗などを栽培する農業を支援するべく、四万十の農産物のブランド化を始めた。
人間にとっての幸福の根源は、収入の多さや便利さではなく、暮らしの風景とそこに滲み出してくる誇りであるということを、この人は早くから腑に落として仕事をしているように見えた。四万十川は、コンクリートの堤防もあり、完全無欠の清流ではないけれども、水と付き合って生きていく暮らしの光景が際立って美しい川である。そんなことを、沈下橋の風景と梅原真の活動から教わったように思う。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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湾と水平線
四万十川流域に住む人々が、沈下橋の風景に誇りを持っているなら、京都の日本海側、若狭湾の西の端にある小さな入江「伊根湾」を囲む集落の人々も、この海の風景に特別の思いを抱いて暮らしているように見える。
日本は海に囲まれた島国であるが、地形が複雑な上、面している海も、日本海、太平洋、東シナ海、オホーツク海と多様であり、海流も全く異なるので、それぞれの土地が向き合っている海はそれぞれ独自の個性を持った海である。
若狭湾を握りこぶしにたとえるなら、同じ湾でも伊根湾は小指の付け根の目立たないホクロくらい。湾の入り口に位置する「青島」が、外海の荒波から湾を守り、一方では程よい潮流を湾内にもたらしている。沖の定置網に向けて、毎日、夜明け前に漁船が出ていく。
伊根湾は、干満時の潮位差が約30cmしかない。太平洋岸の地域だと2m~3m、有明海は大潮の日には6mに及ぶそうだ。海はひとつながりのものと考えていたのでこの事実には驚かされる。日本海は海流の関係で太平洋岸より潮位の差が小さく、伊根湾は中でも特別だとか。さらに青島のおかげで波も立ちにくく湾内は穏やかである。そんな環境が、船の格納庫を一階に持つ「舟屋」を発生させ、湾を取り囲むように舟屋が並ぶ独特の街並みを生み出した。重要伝統的建造物群保存地区に選定されている現在の舟屋は約230軒。最古の舟屋は江戸時代のものである。
舟屋の一階は海に向かう斜面になっていて、これは船を屋内に引きあげ格納する工夫である。木製の船は腐りやすいので、こうした方法で船を家々が管理していた。二階は住居ではなく漁具を置く場所。舟屋の背後には街を一巡する細い道が走り、道を隔てて母屋がある。舟屋と母屋で一式。人々はもっぱら母屋に住んでいる。
伊根の人々はこの静かな海と暮らしている。舟屋のすぐ前の海は庭のような存在だが、いきなり2mの深さがある。透明度の高い海を覗きこむと魚影がはっきり見える。軒先からロープが数本、海に垂れていて、その先にあるのは「もんどり籠」と呼ばれる簡単な仕掛け。調理で出る魚のアラを入れておくと、大小様々な魚やタコが入ってくる。獲物がとれたら隣の生け簀の籠に移す。漁と冷蔵庫がコンパクトに軒先に収まっている。
この舟屋を改装して客を泊めはじめたのは「鍵屋」の鍵賢吾・美奈夫妻。気のおけない空間で、その日に獲れた魚介類を見事な包丁さばきで出す。土地の豊かさを惜しげもなく来訪者に供する姿に、海がもたらす恵みを誇りに感じて働く眩しさがある。
伊根町観光協会の吉田晃彦事務局長は、この地に赴任して8年以上になるそうだが、オーバーツーリズムに毒されない伊根をどう作り、守っていくかに腐心している。地元の人たち皆と顔見知りで、吉田さんが声をかけてくれると、おばちゃん、おばあちゃんが舟屋の中や軒先を自由に見せてくれる。当然のことだがどこの舟屋からも伊根の海と対岸の舟屋ののどかな風景が見える。
こういうものを観光資源と考えるかどうか、しばらく考え続けてきたが、地域の外側や異国の目で見て感動するものこそその土地の資源であると、今では考えるようになった。この暮らしを守りながらも、いかに外来者にその豊かさを味わってもらうか。そのための施設や仕組みをどう作っていくかに少し解像度の高い思考が待たれている。
和歌山県の紀伊半島の先にある宿「海椿葉山」は、小さくて簡素な宿であるが、水平線が完璧に見える宿として印象に残っている。水平線は、現代美術家、杉本博司が「海景」というテーマで写真を撮り続けている対象でもあるが、氏の言葉を借りれば、おそらくは原始時代において、始まりの人類の目に映じた光景とほぼ同じ光景である。岸壁にまっすぐ立って、まっすぐ前を見つめればそこには水平線がある。静かであるとも、宇宙的であるとも、原始的であるとも感じるこの光景は、見つめても見つめても見飽きない魅力を持っている。
単純極まりない構図だが、そうであればこそ、水平線は、場所によって、時間によって全く異なる表情を見せる。日の出や日没の前後の情動的でダイナミックに変化する光も素晴らしいが、青い海原と青い空がぴしりと二分割される昼の海も綺麗だ。月や星が海原ににじむ夜の水平線も蠱惑的である。おそらくは季節による変化も多様であるに違いない。
遠く太平洋を望むこの立地は、交通の便を考えるとたどり着くのに骨の折れる場所である。その場所に、宿の価値を水平線一つに託して存在するかのような旅館が「海椿葉山」である。水の生かし方、使い方という意味では究極の方法で、そこに「椿」という土地の花を添えているところが心憎い。テラスには、椿の植え込みが確かにあり、海風にさらされつつ健気に赤い花を咲かせていた。客室では、女将がいけた椿が、凛と部屋を引き締めている。
日本海の伊根湾と太平洋の水平線は、同じ日本でも天と地ほどイメージの異なる海である。考えてみれば、津々浦々という言葉通り、日本の海岸線はまさに個性的な津々浦々で織り成されている。そのそれぞれに、どれだけ目を凝らし、そこに価値を見出していけるか。その辺りに高解像度の観光の未来が潜んでいる。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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木綿と浴衣
さて、水と湯について、ひとしきり語ってきたが、ここでは少し衣服について語っておきたい。気分と服装は案外と緊密なつながりを持っている。少し反芻してみるなら、僕らは着る物によって随分と気の持ちようが変わることがわかる。暑さ寒さといったような環境変化から身体を守る機能性も、装う楽しみつまりファッションの要素も重要であるが、情緒や心理にも、衣服は大きな影響をもたらすのである。例えば、ブラック・タイで、と招待されたらここは気分をきっぱりと切り替え、ハレの場を寿ぐべく、自分という個性を潔く正装という皿に盛り付けていけばいい。これを面倒と考える向きもあるが、人生にメリハリをつける意味で、ハレという場の演出や、そのための衣服は、洋の東西あるいは南北を問わず工夫されてきた。
また、制服やユニフォームは、職務や役割を演じていく上で、思っている以上に気分を高揚させるものである。野球のユニフォームを着てエースナンバーを背負うような経験がなくても、同じTシャツを着て卓球のダブルスを組むだけでも、不思議な意思疎通や連帯感が生まれてくる。これはなかなかあなどれない心理作用ではないか。
一方で、正装や制服とは真逆の、気持をゆるやかに弛緩へと向かわせる衣服もある。これは普段着とか、ワンマイル・ウエアというような、状況からくる呼び名や、ジャージー、フリースなどと、素材の名称で代替されて呼ばれることも多い。特徴としては身体を締め付けない、ゆったりとした大きさと、身体の動きに沿うしなやかな伸縮性を持っていることなどであろうか。もちろん、肌に心地いいことも重要である。
日本では、さして伸縮性はないものの、解放的な気分にしてくれる素材として、江戸時代から木綿が用いられてきた。典型的なのは浴衣である。浴衣は、ハレからケヘ、あるいは緊張から安息の世界へと、身体と心を移ろわせる特別な衣服である。しっかりした浴衣は外に着て出られるカジュアル・ウエアであり、近年ではおしゃれ着とすら認識されている風もあるが、ここで取り上げているのは、寝巻に近い、身体の緊張を緩めてくれる浴衣である。
いつごろからの風習かは定かではないが、日本の旅館や簡便なホテルでは、浴衣を寝巻として供するところが多い。おのずと浴衣は心身をリラクゼーションへ導いてくれる衣服であるという認識も広がっていく。
ただ、安逸へと意識を誘うからといって、ヨレヨレと柔らかいだけでは物足らない。浴衣には糊を利かせてある場合も少なくない。これは世俗にまみれた此岸から愉楽の彼岸へとうつろうための身体の浄化を演出する要素を含んでいるのかもしれない。ぴしりと折り畳まれた糊の利いた浴衣を、ほぐすように開いて、ばさりと一振りしたのちに左右の袖を通す、その瞬間に心身は浄化され、この世からあの世へと移ろうのである。温泉の場合、あの世とは「湯の世」、すなわち解脱の世界である。狼男が満月を見ると狼に変身するように、日本人は、浴衣を着ると、愉楽の人へと変貌するのである。
浴衣は、更衣を簡便に行うために工夫された衣服でもある。滑りのいい帯をするりと引くだけで簡単に脱げる。身体から滑り落ちるように脱げる浴衣を軽く畳んで更衣籠に放り込み、手ぬぐい一枚をもって浴場に向かうのである。この感覚は、異国からの来訪者も理解している感があり、日本の旅館に泊まっている異国からの来訪者はおおむね、浴衣を楽しんでいるようだ。
これを書いていて気づいたが、近年、浴衣に糊をする傾向は徐々に減ってきているかもしれない。ぴしっと折り目正しく畳まれている情景は変わらないけれども、糊を利かせている浴衣は少なくなった。あるいは糊の度合いが浅くなっているのかもしれない。しかし、日本のラグジュアリーを考えるなら、ぴしりと糊の利いた浴衣と、それに手を通す時の心理的な影響力について、もう少し深い省察が必要かもしれない。身体の湿度によって、浴衣は瞬く間に体に寄り添い、結果として身体に優しいリラクゼーションを与えてくれるわけであるが、糊の利いた一枚の布に身体を通す刹那の感覚は、他の衣服にはない特徴である。薄い木綿という素材に、江戸時代から込められ続けてきた知恵に、少し思いを巡らせてみてはどうだろうか。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
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バスローブとタオル
心地よさを感じでもらうには、気持のいい素材を吟味しておくことが不可欠である。そしてもちろん、それだけでは足らない。それに触れる人々の五感をぴんと立たせる、つまり素材を通して触覚や嗅覚を繊細な方向に導いていくことも肝要である。なぜなら、敏感になった感覚でこそ、素材のご馳走を喜び、その快適さを深く堪能できるからである。別の言い方をするなら、吟味された素材で、利用者の感覚の目盛りをより細やかにし、官能の精度を高めていくのである。同じ綿でも、糊の利かせ方一つで、肌の感じ方は変わる。
ホテルに滞在する場合、バスローブとタオルは居心地を左右する大事な要素である。普段の暮らしにもバスローブやタオルはあるが、感覚を目覚めさせるという観点から見直すなら、その品質、風合い、厚み、重さへの配慮はもちろん、それらをどう差し出すか、そしてどのように使ってもらうかという「行為の連続性」、つまり使用環境にどう気を配るかを考えておく必要がある。
バスローブは、タオル地でできたワンピースの衣類であり、着物のように腰紐で結んで着用する。風呂やシャワーの後、濡れた体のままで、タオルがわりに使う人もいるかもしれないが、一般的にはタオルで身体を拭いた後に、これに手を通す。まだ火照って汗ばみ、湿り気のある身体に、吸水性のある柔らかい綿のローブはとても心地がいい。
ただし、生地が分厚すぎると、重すぎて快適ではない。どっしり肩にかかる重みで快適さが損なわれる。また洗いざらして繊維が硬化すると、ゴワゴワと硬い印象になる。最近は、ワッフルという立体的な織り方の布が用いられたりするが、これは肌に跡がつくと言われ、敬遠する人も少なからずいる。
理想を言えば、ふっくらとした柔らかい綿のパイル地で、程よい厚みのバスローブがいい。タオルも同様でゴツすぎず、程よく薄く、軽いものが理想である。
バスローブの色は、素材が綿であるからどんな色にも染まるだろうが、基本は染料を用いない素材まんまの白がいい。シミひとつない白いバスローブとタオルは、極上の清潔さの保証でもあるからだ。この清潔さと白さをいかに効果的に供せるかで、顧客の感覚や身体の能動性が変わり、居心地への評価も変わる。具体的には、畳み方、置き方、掛け方、乾かし方、温め方にきちんと気が配られていて、その使い回しや使用済みの処理がスムーズに行えることが望ましい。
近年、イタリアには充実した温浴施設が誕生しており、それらの施設にローマ時代の公衆浴場の片鱗をそこはかとなく感じている。その一つは、ローマのフィウミチーノ国際空港に隣接するQCテルメローマ・スパ・アンド・リゾートという施設である。おそらくは古代の温浴施設を意識して作られたのだろう、トンネルのような暗い空間に様々な様式の風呂が分岐・点在しているかと思えば開放的なプールやジャグジーもあり、決して短時間の滞在ではなく、一日をゆったりと過ごせる工夫に満ちている。スイスのテルメ・ヴァルスが禁欲的で瞑想的な施設であるなら、こちらは逸楽的・開放的な温浴施設である。
ローマの施設に感心したのは、清潔で機能的なバスローブ・ハンガーが、いたるところに設置されている点であった。この施設では水着の着用が義務付けられているが、ここで快適な時間を過ごすための必需品として、バスローブとタオルがある。湯から出て休んだり、プール脇に設けられたバーやレストランで飲食したりする場合、バスローブをひとつ羽織ると公共空間に落ち着きが生まれる。人々で賑わう飲食の空間はさながらバスローブの国に来たようである。湯から上がるときに、うっかり他人のものを間違えて着用したり、自分のものを間違えて着用されてしまったりすると気分は台無しである。そんなことが起こらないように、しっかりしたスタンド式のハンガーが整備されている。このような工夫や配慮は、たしかに大事だと感心したことを記憶している。こういう小さなポイントが、ひょっとすると、ローマ時代の浴場の知恵の遺産なのかもしれない。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
031
解放と集中を生み出すウエア
浴衣でもバスローブでもなく、心身にリラックスと集中を生み出す衣服というものがあるだろうか。ゆったりしたショートパンツにTシャツが一番という人が案外多いかもしれない。確かにそれを凌駕するのは簡単ではないだろう。また、アロハシャツの解放的な柄こそ心身を解放してくれるという意見も見逃せない。それも実に説得力がある。ハワイの緩んだ空気と掛け合わされるアロハシャツの柄がもたらす爽快感はたしかに素晴らしい。
しかしながら、さらに個性すらなくして、装うという気持の中に含まれる微かな緊張すら剥ぎ取ってしまう、究極のリラックス・ウエアというものを考えてみたいと思うのである。何度か書いてきたが、仕事と休息が同じ場所で行われるようになると僕は考えている。心身を緩めていくことが、逆に大きな集中力や持続力を生み出すこともある。まるで透明人間になったかのように、自我の存在も忘れるほどに解放的な感覚、そんな境地に人をいざなう衣服はないだろうか。
僕がもし、しかるべき土地に理想のホテルを構想するなら、そこで過ごすためのウエア一式を、空間に向けるのと同様の意識で考案してみたい。天然素材でありながら、程よいストレッチ性のある生地で、室内でも屋外でも着られる服、ホテルのダイニングでもそのまま着用できる服である。
日本の旅館では、宿泊客は浴衣か、浴衣の上に半纏をまとってダイニング施設へ赴く。それがむしろ自然で、ここで通常の衣服を着ていると、その場の雰囲気をこわしているような感じになる。しかしながらバスローブを着てレストランに行くのはマナー違反であると感じる。西洋流ではレストランでは正装かネクタイやジャケットの着用が求められる。バスローブを着てスパやプールへは移動できるが、ロビーやレストランのフロアは歩けない。このような、いわゆるドレスコードは理解できるが、そういうルールから開放されるラグジュアリーホテルもあっていいのではないか。
その衣服はおそらく上下2ピースでできている。とてもゆったりしていて老若男女を問わず、太った人にも痩せた人にもフィットする。色は、環境から浮き上がらない色が落ち着くだろう。痩せぎすの若者にも、お腹の出たおじさんにもフィットするパンツ。シャツは軽い麻か細番手の綿か。ただゆるいのではなく、輪郭をなす線に優雅さがあり、それを着る人の心理にエレガンスと余裕を生み出すような衣服である。社交という張りから逃れ、かといって緩みきって過ごすのでもない。ひとりの人間として、仕事をしつつ休みつつ、静かに自身の内面と向き合う、そんな時間の中で着用する衣服である。
履物も重要だ。室内では丁寧なつくりのやや深めのスリッパでいいが、屋外に出る時は履物を替えたほうがいいだろう。スリッパほどカジュアルではなく、ビーチサンダルや草履のように足をむき出しにしない。軽くかかとも覆った方が落ち着くかもしれない。羽のように軽く、装着感もやさしい、そんな足元はどうだろうか。
リラクゼーションとラグジュアリーという言葉は、響きが似ている。身体に最高度の弛緩と愉楽を許しつつ、解放された気分が、高度な集中を生み出すような、そんな局面を想像してみてほしい。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
032
天然素材への感受性
日本の空間の情緒は、素材への気の通わせ方から生み出されている。木や紙といった軽い素材を用いて、尺貫法のグリッドを基盤として襖や障子、床や棚を華麗に展開する数寄屋や、丸太を粗く削って骨太な木組みで構成する民家がすぐに思い浮かぶかもしれない。焼き板の塀や、無数のヴァリエーションを見せる竹垣、艶やかに光る廊下や階段、そして手斧で仕上げた浅い鱗状の壁や柱の風情も記憶の中から現れてくるかもしれない。
これら日本の空間の背景をなす情緒は、精密に削り出した大理石や煉瓦で数理的秩序を生み出す西洋の空間とは違う。物の表面に精緻な彫刻を施さずにはおれらない中国や、幾何学パターンで覆われたイスラムの建築とも違う。空間を構成する素材の美を感受するポイントが違うのである。
「数寄の家」住友林業×杉本博司 HOUSE VISION 2013TOKYO EXHIBITION
漆喰壁の凛とした白も日本家屋の特徴かもしれない。漆喰というのは石灰の唐音に対する当て字だと言われており、要するに漆喰は石灰の粉にふのりや麻の繊維などを混ぜたもので、これで壁を仕上げると、ほんのりと湿気をはらんだ、たおやかな壁面が完成する。もちろん、もちろん漆喰で仕上げる壁は日本だけのものではないが、模様やテクスチャーをつけたりしないで、ぴしっと平面の精度を保って塗られた漆喰壁の胸のすくような心地よさは日本的である。漆喰は呼吸しているとも言われる。湿度の高い時には水分を吸収し、乾燥した時には逆に水分を発散させて、室内を一定の湿度に保つ働きがあるのだ。その作用と、しっとり、ひんやりした存在感が、心の深部を落ち着かせてくれるのかもしれない。
庶民的な建築では木造モルタルという言葉もよく耳にする。モルタルとはセメントに砂を混ぜた素材で、ざらりとした肌理の壁ができる。これも上手に用いれば味わいがあり、屋根を瓦で葺けばそれなりに日本家屋の風格を持つ住居ができる。手軽さ、使い勝手の良さでモルタルもよく使われているが、仕上がりの品格を問うなら壁は漆喰で仕上げるのが上策のように思われる。
建築の礎石や庭の飛び石、玄関の沓脱石には石が用いられるが、石は切らないで天然のままのかたちを生かして用いられることが多い。庭にもどかっ、どかっと石を配するが、作為を感じさせないさりげなさで自然石をあしらう点が、日本の空間の特徴のひとつでもある。ことさら数寄屋や名園を持ち出さなくても、これは現代の空間においても普通に通じるように思う。
また、日本の空間に用いられる材木は、ソリッドに、つまり中が詰まったまま用いられることも大きな特徴である。握った中指の関節で表面を叩いても、空洞の反響がない。中空ではなくコッ、コッと中が詰まった手応えとなる。柱も梁も切った端面は素材のままが露出している。したがって、材木の結節点つまり仕口は、そのまま見えても美しいように、巧緻な大工の技で仕上げられている。
さらに木材は、塗装のほどこされていない無垢の素材であり、これを「白木」と言う。白木とは白い木のことではなく、無加工、無塗装の、素材そのままのことを言うのである。白木の肌を最後に仕上げるのは鉋である。研ぎ澄まされ絶妙に調節された刃が削り出す白木は紙よりも薄く艶やかだ。そのひとひらの中に木を扱う職人の気概が透けて見える。今では、寿司屋のカウンターくらいしか、この贅沢な白木の使いぶりを堪能できるところがないかもしれないが、上がり框や、太柱、梁など、ソリッドで無垢な素材を堪能できる見所が、日本の建築には随所に見られるのである。今日においてすら国土の約7割近くが山林であることを考えると、古代より豊富に調達できた木材がふんだんに建築に用いられてきたのはごく自然な流れであろう。
「数寄の家」住友林業×杉本博司 HOUSE VISION 2013TOKYO EXHIBITION
時代が現代に移り、コンクリートの建築が主流になっても、素材を「無垢」のままで用いる作法は引き継がれているようで、日本の建築家の用いる打放しのコンクリートは素の肌が美しい。たとえば安藤忠雄の建築は、白木のコンクリートとでも言うべきものかもしれない。打設した表面は、化粧を施さなくてもつるりと平滑に仕上がっており、様々な隙間から巧みに導かれた光が、這うようにその表面を伝って室内に呼び込まれる風情は、現代に再現された日本伝統建築の冴えである。
いずれにしても、石、土、木、紙、コンクリートといった素材を無垢のまま、そして中の詰まったまま用いる感覚が、日本の空間の美意識の一端を担っていることを記憶に留めておきたい。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
033
床の間-室内における美の存在様式
「座敷」とは畳を敷き詰めた居室であるが、畳がモデュールを担い、襖や障子の形式が完成されてくるのと歩調を合わせるように、座敷には「床の間」という空間が生まれてきた。
床の間とは、畳一畳程度の空間で、方形の部屋の奥に、壁を凹ませるように設けられた空間である。床には畳を敷いたり、床板を敷いたり、一段高い「蹴込み床」としたり、部屋の畳の面と水平の「踏み込み床」にしたりとバリエーションがあるが、この特別な凹みに、掛け軸、花、香炉など、最小限のアートを配する風習がある。現代の日本人の生活や住空間においては失われつつある風習であり空間であるが、茶の湯などでは主人が客をもてなす主要な空間として大切にされている。
「床の間」の起源は、室町時代に生まれた「書院造り」である。この時代に、「床の間」、「違い棚」、「付書院」などの空間ボキャブラリーが明快に立ち上げられた。それまでは、貴族の住まいであった寝殿造りが権威ある住居建築の規範であったが、対面や接客に重きを置く武家の台頭によって、書院造りが発展したと言われている。
書院とは本来、書きもの、つまりデスクワークをする場所であるが、本来の用途よりも、主人の格や品位、趣味嗜好を客に表現するためのメディアとして象徴的な意味合いを持つようになったと推測される。違い棚は渡来物などの美術品を飾る場所、床の間は仏具などが置かれる神聖な空間という暗黙の定義があったようだが、実際には接客のための、主人の美意識を訴求するコミュニケーション空間として機能した。
2005年 新聞広告「茶室と無印良品」より Photo: 上田義彦 Coordinater: 橋本麻里
最も簡素な書院は慈照寺銀閣の東求堂に今日も残る「同仁斎」であり、最も豪勢なものは二条城の二の丸御殿の大広間であろう。同仁斎には床の間はないが、簡素簡潔に極まった書院と違い棚の風情は、主人であった足利義政の侘び好みを色濃く反映するものであり、茶室の原点となる美意識をも象徴している。また二条城の大広間は、絢爛たる狩野派の障壁画に囲まれ、主人の座る上段から、客の座る下段へと段差が設けられた大仰な造作で、江戸という時代の礎を築いた徳川家康の威勢を具現する趣向としてわかりやすい。
枯淡の境地にせよ、天下を睥睨する威の表象にせよ、書院という空間が客にメッセージを送る装置として機能してきたことはこれらの例からも想像でき、日本の座敷に漂う「床の間」の独特のオーラの根元はこのあたりにありそうだ。
もっとも、体面を重んじるあまり客間を住宅の第一義に考えてしまうという、住居本来の機能の転倒は、俗な言葉で言えば「見栄を張る」という窮屈な態度を生み出しかねず、近年の日本の住居は、普通の人々が合理的、快適に暮らしていける方向に導かれてきており、2DK、3LDKといった現代的な住宅の間取りにおいて、床の間は姿を消しつつある。ホテルの客室においても同様である。
ただ、ここで作法や風習に関するしかつめらしい話をするつもりはないが、室内にアートを配する場合、これを分散させず一つに集中させる工夫として眺めるなら、「床の間」には注目すべき合理性がある。そしてこれは日本のラグジュアリーを体現する手法として、今日、あるいは未来において有効であるとも考えられるのだ。
床の間の様相は先に述べた通り様々だが、通底する考え方は、室内に美的な空間を生み出そうとする際に、それを室内の一点に集中させるということにある。絵画や写真、彫刻、家具や工芸、生花など、空間を彩る要素は多々あるが、室内の全方位にそれらのエネルギーをふりまくのではなく、床の間に集中させることで美を一点に集約できる。この仕組み、あるいは着想は大事にしたい。
欧米で家に招かれると、壁一面にびっしりと、大小の額縁入りの写真がひしめいていたりする。家族の写真である場合が多いが、絵画コレクションの場合もある。いずれにしても多数のアートで壁面を埋めるが如くで、まるで何も掛かっていない壁面は許されないかのようである。確かに壮麗であり見応えもあるが、賑々しさを避け、見所を一か所に集中させるのが日本人好みである。
客を招く場合、亭主は床の間のアートに心を尽くし、客も訪れるとまずは床の間を見て、亭主の心をそこに読み解く。掛け軸、花、香炉……、たしかに形式ばっていて堅苦しいといえばその通りだが、俳句という形式が、五・七・五という規定によって、かえって無限の表現を誘発するのと同様に、日本の空間は、床の間に意識を集約することで洗練されてきた。伝統を重んじるなら、形式そのものではなく、そこに生み出されてきた洗練を思うことが重要だろう。
未来の空間に床の間が不可欠であるとは思わないし、床をいかに解釈するかという問いは、日本の建築史においても繰り返し試みられてきた月並みな問いかもしれない。しかしながら、美の存在様式を一か所に集約するという考え方を頭の隅に置いておくことは、自分たちの文化の独創性を発揮する指針となるはずだ。
瀟洒なテーブルにクリスタルグラスを並べ、豪奢なシャンデリアを吊るすのもラグジュアリーだが、千年を超える歴史的な蓄積を持つ日本であるなら、時代のついた木片をひとつ床柱に据えるだけで、異様なる価値のオーラを発する空間ができる。床の間の構成において、角に相当する部分の柱は特別に「床柱」と呼ばれて、他の構造的な柱とは一線を画する趣向が凝らされてきた。たとえば、樹皮のついたままの木を配したり、歪みのことさらユニークな材木を配したりという具合に。つまり床という特別な空間へ、客の注意が自然と向くように設計されてきたのだ。何の変哲もないただの畳の部屋が、床柱一つで、圧倒的なユニークネスを発揮することになる。
特別なステージとして設けられた床の間に、掛け物として絵画や書、そして花が、亭主のもてなしの心をこめて配されるのである。季節、絵画や書の主題、花材やその生け方、軸装の風情、花器や花台の選び方・合わせ方など、ここで展開される趣向は無数である。
このような工夫は決して日本人の心をのみ動かすものではない。個別文化に対する感度の高い人々は世界中にいる。ほんの少し、日本文化における美のあしらい方を理解するだけで、優れた数学者が何のヒントもなく答えに辿り付くように、彼らは美を発生させる装置や仕組みを理解する。これは、美、あるいはアートという心の躍動を生み出してきた人類共通の感覚が、文化や形式を超えて起動するからであろう。伝統を未来資源として活用するということは、そのような感覚の流れに棹を差すことではないかと思うのである。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
034
生きた草木を配する
感じのいい旅館や飲食店で、心を動かされるもののひとつに生けられた花がある。生け方の流儀はさておき、生きた花を空間に配するには、相応の手間暇がかかり、そのような心配りを客は無意識のうちに感じとっている。空間にはなやぎを添えるならつくりものの花でも同じ効果はあるかもしれないが、生きた草木がそこにあるということは、空間をしつらえる人とその空間に深い意思の疎通があることをうかがわせ、丁寧なもてなしを受けていることを客は暗黙裏に察知するのである。
花を生けるということは植物を美麗に装飾することではない。銀閣寺の花方として活躍し、生け花の創始の精神に基づいて花に向き合っている珠寳(しゅほう)さんという人がいる。この稀代の花士(はなのふ)は、造形的なことよりも、まずは花という生命と向き合う姿勢を大切にしている。
参照: 珠寳「造化自然 銀閣慈照寺の花」(淡交社) Photo: 渞忠之
生け花は室町の中期、足利義政の時代に東山文化とともに立ちあがった。まさに日本的な枯淡とミニマリズムの勃興期である。それは禅的な思想で花という生に向き合うものであった。華やかに植物を飾るのではなく、まず、すっくと花を立てる。当時使われていた花を立てる道具は、剣山ではなく「こみ藁」というもので、脱穀後の稲藁を干して丁寧に切り揃えて束にしたものである。これを、花材や規模に応じて束ね直して花器に据え、花や草木を挿す足元とするのである。
珠寳さんは、この原初の花の立て方・生け方を今日に受け継ぐ人で、現在も「こみ藁」を用いて花を立てており、花は上の方ではなく、まず足元と水際をぴしりと美しく仕上げることが肝要だと語っている。もちろん、しんとなる中心や、そえとなる周囲のバランスや調和も大事であるが、そこには自分の作為をむしろおさえ、立つ花の周囲に生まれる余白に心を通わせることで、凛とした風情が自然に生まれるという。たしかに、珠寳さんの生ける花は、足元が美しく、見るだけで背筋がしゃんと伸びるようである。
また、茶の湯の世界でも、亭主は床の間に花を生けるが、とりたてて生け方に関するノウハウはない。ただ「花は野にあるように」という千利久の短い言葉があるのみである。この一言はまさに意味深長で、この言葉の重みで、茶の湯における花の精神は揺らぐことなく伝承されている。
JAPAN HOUSE LONDON Photo: 深尾大樹
一方で、根のある花を切って生けるのではなく、生きた植物を丸ごとアートに仕立てるのが盆栽の世界である。生きた樹木を根ごと鉢に植え、その成長を制御しながら、幹や枝振りの妙を生み出すべく長い年月をかけて手入れをしていく芸術である。植物の命は人間の寿命よりも長いので、守り継がれてきた長寿の盆栽は400年を超えるものもある。
盆栽の姿形や発しているオーラに気圧されて、これを特殊な嗜好の世界と思いがちであるが、若い盆栽や、空間との疎通や調和を含め、これを現代的な調度の一環と考えると、そこには素晴らしい可能性がある。
斯界の第一人者である森前誠二氏に、ある時質問したことがある。盆栽と普通の樹木との違いはどこにあるのかと。森前さんはいとも簡単に「盆に盛られているかどうかです」と答えた。「ただしその場合、盆に盛った人がその樹にとっての自然になる」と。この明快な答えは実にすっと腑に落ちた。
正直に言って、僕は盆栽にとっての自然にはなれない。旅が多く、盆栽に十分な光や水を安定的に供給できない。すでにふた鉢ほど枯らしてしまった苦い経験もある。しかしそれだけに人と盆栽の関係は痛切に理解している。
青草窠 Photo: 深尾大樹
生きた草木と、それを空間に配する日本人の精神には、上記のような関係がある。つまり、生きた花と付き合うことは、花を介して、生命や自然、そしてそれが置かれる空間に感覚を疎通させるということであり、心を尽くし、手間をかけるということである。それは決して簡単ではないけれども、実行できた時には、そこには人の心をつかんでやまない何かが生み出されているのである。日本の旅館を訪れて、そこに生けられている花を見ると、その旅館と主人の心持ちを感じるのはそういう経緯からである。
日本のラグジュアリーは贅を尽くすことではない。それは、花や草木の命のあしらい一つにも集約できるものなのである。
第3章 日本のラグジュアリーとは何か
035
清掃
人はなぜ掃除をするのだろうか。生きて活動するということは、環境に負荷をかけることだと、ヒトはたぶん本能的に自覚している。だとしたら、負荷を生まないように、自分たちが生きるために恵まれたこの自然を汚さないように活動すればよさそうなものだが、ヒトの想像力あるいは知力は、負荷をかけ続けた果ての地球を想像したり、数世代先の子孫の安寧に配慮したりする力がなかった。今日、僕らは目前に現れた危機、つまり浜に打ち寄せる大量のプラスチックゴミ、気候変動による農産物や水産物の収量の変化、溶ける極点の氷や氷河、潮位の変化など、近づきつつある危機の予兆を目の当たりにして、地球という資源の限界に気づき、「持続可能性」などという殺伐とした言葉を口にするようになった。文明は急ブレーキを踏み、大慌てでハンドルを切ろうとしている。確かに必要な反省であり対処であるから、これに異を唱えるつもりはない。しかし、いきなり「地球」という大テーマを口にする前に、ヒトが本来持っているはずの自然や環境への感受性について、反芻してはどうだろうか。
さしあたっては「掃除」である。ヒトは掃除をする生き物だ。掃除は誰に教わることなく、あらゆる文化・文明においてそれなりの方法で行われてきた。
ある仕事で、世界中の掃除の情景を映像として集めたことがある。具体的にはドイツ、トルコ、イラン、中国、そして日本で、様々な掃除のシーンを撮影した。オペラハウスの客席の掃除、バイオリン奏者の楽器清掃、教会の窓拭き、公園の落ち葉除去、モスク周辺の街路掃き、バザールの壺磨き、年に一度村をあげて行われるイランの絨毯掃除、万里の長城の掃き掃除、天津の高層ビルの窓拭き、奈良の東大寺で年に一度行われる大仏のお身拭い、水族館の水槽のガラス磨き、動物園の象の身づくろい、普通の家の座敷の掃き掃除、はたき掛け、禅寺の床の雑巾掛け……。
集めた映像を数秒ずつ数珠つなぎに編集して眺めると、不思議と胸が熱くなる。人類は掃除をする生き物なのである。なぜヒトは掃除をするのか。ここに何か未来へのヒントがあるように思えてならない。
無印良品 書籍「掃除 CLEANING」より Photo: 深尾大樹
少し観察してみると、掃除とは、人為と自然のバランスを整える営みであることがわかる。未墾の大地を、自分たちに都合よく整え、都市や環境を構築する動物は人間だけだ。だから自然に対してヒトがなした環境を「人工」という。人工は心地がいいはずだが、プラスチックやコンクリートのように自然を侵食しすぎる素材が蔓延してくると、ヒトは自然を恋しがるようになる。「人工」は巨大なゴミなのではないかと気づき始めたのである。
一方、自然はといえば、放っておくと埃や落ち葉が降り積もり、草木は奔放に生い茂る。自然は人を保護するためにあるわけではない。放っておくと荒ぶる姿となって、人の営みを蹂躙する。人が住まなくなった民家の床や畳の隙間からは、瞬く間に草が芽を出し、生い茂り、数年のうちに草木に飲み込まれてしまう。緑を大切に、などという言葉ももはや出ないほど、緑は猛威をふるうのだ。だから人間は、自然をほどほどに受け入れつつ、適度に排除しながら暮らしてきた。おそらくはこれが掃除であり、そのバランスこそ掃除の本質であろう。
無印良品 書籍「掃除 CLEANING」より Photo: 深尾大樹
こんな風に掃除のことを考えているうちに、ふと「庭」に思いが至った。庭、特に日本の庭は、「掃除」すなわち自然と人為の止揚、つまりその拮抗とバランスを表現し続けているものではないかと思ったのである。掃除はもちろん日本だけのものではないが、お茶を飲んだり、花を立てたりという行為を「茶の湯」だの「生け花」だのに仕立てるのが得意な日本である。住居まわりの環境を整える「掃除」という営みを「庭」という技芸に仕上げたのかもしれない。
住居をつくるにも、人工が勝りすぎるのは野暮。落ち葉は掃きすぎず、草木も刈りすぎず程よく茂るに任せる。まるで、打ち寄せる波が砂浜をあらう渚のように、人為と自然がせめぎ合う「ほどほどの心地よさ」を探し当てること、それが庭の本質である。庭は美的な作為であり創作物と思われているかもしれないが、自然に対するあらゆる人為は、いわば「しでかし」に過ぎない。しかし、そのしでかされた庭に愛着を覚え、これを慈しむ人々が現れて、程よく落ち葉を掃き、苔をむしり、樹々の枝葉を剪定し、守り続けた結果として「庭」は完成していくのだ。当然、長い時間が必要だが、歳月のみが庭を作るわけではない。やはり「人為と自然の波打ち際」が管理され続けることが必須である。
大上段に振りかぶって「地球温暖化対策」とか「持続可能な社会」を考えるのではなく、歴史の中、文化の中に蓄積され、すでにヒトに内在しているはずの知恵や感受性に気づいてみることが重要なのではないか。
HOUSE VISION 2013 TOKYO EXHIBITION 「極上の間」TOTO・YKK AP×成瀬友梨・猪熊純 植栽設計: AMKK 東信 Photo: AMKK 椎木俊介
海外の旅を終えて日本の国際空港に降り立つときに、いつも感じることは、とてもよく掃除されているということである。空港の建築は、どこも質素で味気ないが、掃除は行き届いている。床に染みひとつないというような真新しさではなく、仮にシミができても、丹念に回復を試みた痕跡を感じる。そういう配慮が隅々に行き届いている空気感がある。
なかでも一際目立っているのが、トイレである。トイレがきれいであるということに、僕は日本の未来への一縷の光明を感じるのだ。それを使う人の心にも、掃除をする人の心にも、同時に喚起される何かがないと、トイレはきれいにならない。そこに「庭」に象徴される美学とプリンシプルを感じるのである。日本のトイレは「庭」であり、「掃除」であり、「持続可能性」はそういうところに潜んでいるのではないかと。
第4章 『低空飛行』からの展望
第4章 『低空飛行』からの展望
036
「遊動」へ向かう世界
21世紀の中葉に向かって、人の移動はどうなるのだろうか。新型ウイルスの世界的蔓延を契機として、リモートワークや遠隔コミュニケーションが加速し、人々は移動しなくても充実した活動を維持できることがわかった。したがって、人の移動は減少傾向に向かうと推測する人々もいる。確かに、コロナ禍は、文明の曲がり角を示す大きな句読点だったかもしれない。増えすぎた人類や、傷めすぎた環境に対して、恒常性の維持や浄化機能のようなものが地球・自然の摂理として備わっているなら、行きすぎた人為に対して反動があってしかるべきであり、ウイルスも異常気象もひとつながりの現象かもしれない。
しかしながら、移動について言うなら、それが可能な状況になると、人々は徐々に動きを加速していくように思われる。なぜなら文明史的な観点で、世界は「遊動の時代」に入ったからである。
「遊動」の対義語は「定住」である。農耕の発達以来、田畑とともに生きる安定した暮らしのかたちであった「定住」が、通信技術と移動手段の共進化によって揺らぎ始めているのだ。リモートワークや遠隔コミュニケーションの成熟は、家にいながら仕事ができるというより、どこにいても仕事ができる・繋がる、という状況を生み出したと考えた方がいい。
この半世紀の間、国境を越えて移動する旅行者の数はうなぎ登りに増えてきた。50年ほど前は、国境を越えて移動する人の数は約1.2億人。そのほとんどは欧米人だったと推測される。しかしながら2019年の時点ではほぼ10倍の約12億人が国境を越えて移動している。日本人も、アラブ人も、中国人も、盛んに移動するようになった。この傾向は今後ますます加速していくと予想され、2030年には約18億から20億の人が国際的に移動すると言われている。延べ人数ではあるが、これは実に世界の人口の約3分の1から4分の1に相当する。このような遊動性が、全く新しい世界の「常態」を生み出していきそうだ。
世界はグローバルに連携し始めて久しい。情報も、資源も、資金も、人も、製品も、国境を越えて流通している。一方で、世界がグローバルになればなるほど、文化的な特異性、すなわちローカルの価値が高まっていく。その土地の固有性や文化・伝統の独自性が、世界の文脈の中で輝きを強めていくのである。世界は、混ぜ合わされて均質化しグレーになっていくのではない。個別文化の固有性が、鮮明に煌めいてこそ、世界は豊かなのだということを人々は理解している。イタリア料理は地中海で、日本料理は日本列島の風土で味わうことが至上であり、タイではタイの美意識にあった建築や衣服が、インドネシアではインド太平洋に広がる数多の島々の気候に即したヴィラや音楽が輝きを放つ。人々はグローバルに移動し、地球/環境/文明の素晴らしさを、ひとつひとつの土地で味わう。「グローバル/ローカル」は対義語ではなく、一対の概念として新たな価値を生み出し始めているのだ。
第4章 『低空飛行』からの展望
037
数字から考えてみる
インバウンドの伸びは、その変化を如実に反映している。2009年の訪日旅行者の数はわずかに680万人であった。それが2019年には約3200万人に達していた。わずか10年間で実に4.7倍。
この間、スペイン、イタリア、フランスなどの観光大国もじわじわとインバウンドの数を伸ばしている。スペインは5000万人から8000万人に、イタリアは4000万人から6500万人に、フランスは8000万人から9000万人へと伸ばした。いずれも概算だが、自国の人口を超える数の来訪を受け入れていることになる。観光は二流の産業で花形は製造業と高をくくっていた日本であるが、今後の見通しとして2030年には6000万人の来訪が予測される状況においては、国の産業ヴィジョンを見直すことが喫緊の課題であることは明らかである。
産業的な論点でこの問題を捉えるなら、インバウンドの効果を売上高で示してみるとわかりやすい。3200万人に達した2019年の訪日外国人の消費額、つまりインバウンドの売上高は約5兆円。自動車の輸出額は約12兆円、半導体等の電子部品の輸出額が約5兆円弱であるから、インバウンド消費の規模の大きさが理解できる。2030年のインバウンドが6000万人と予測され、その売上高は10-15兆円が見込まれる。日本の産業の趨勢を考える上では見逃せない数字である。
製造業的産業観から脱却できない日本の産業は、この状況をうすうす知りつつも、これを看過しているように思われる。なぜなら、「精密なシステムや製造の仕組みを管理していく仕事」は得意でも、「価値を見立てていく仕事」においては、投資と回収の仕組みや、美や味、品位や風格、心地よさなどといった感覚知を的確に制御していく人材や事業運営のノウハウが、蓄積されてこなかったからである。よくできたホテルを見て、丸ごとそれを買収するような動きはあっても、ゼロからそれを組み立てることはしてこなかった。だからある意味、手をこまねいていたというよりも、手が出せないでいたと言った方が正確かもしれない。日本にも、格式のあるホテルや、伝統あるリゾートホテルはある。しかし、日本のホテルはその誕生に遡れば分かる通り「西洋文化を咀嚼する」という方向で立ち上がってきた経緯があり、日本流をもって訪日客をもてなすようには仕立てられていなかった。
したがって、むしろ外国資本、たとえばシンガポール、香港、米国あたりの、美や価値の差配に覚えのある外国資本が、日本の観光の潜在力に着目し、日本への投資を着々と進めていたわけである。そんな状況を考えるなら、コロナ禍は、むしろしかるべき準備にとりかかる猶予を得たという意味で、日本にとっては好都合であった。曲がるべき角が見えているなら、遅きに失するということはない。しっかりと足元を踏みしめて曲がればいいのである。
一方でもちろん、データや数値予測だけを頼りに、インバウンドに経済効果を期待するのは短慮に過ぎる。オーバーツーリズムが指摘されて久しい京都をはじめとする既存の観光地は、イナゴの大群のように押し寄せる観光客によって、居心地の悪い場所になりかけていた。日本に限らず、ベニスにしても、バルセロナにしても、多くの来訪者によって消費されてしまいそうな場所は多々指摘されていた。したがって、これまで世界の人々が「観光」ととらえてきた発想から離れて、できることなら、風土や文化、そしてサービスを高く評価し堪能できる人々に、より少なく来訪してもらって、同様の経済効果を生み出す道筋を探らなくてはならない。高い対価を払ってでも、その場に行き、そこの空気を吸い、建築やサービスを享受したいと、世界の目利きたちに一目置かれる場所になる必要がある。この点は肝に銘じておきたい。
第4章 『低空飛行』からの展望
038
観光資源は未来資源
一般的に観光資源と言えば、「気候、風土、文化、食」をいう。そのいずれにおいても日本は非常に高い潜在力を持っている。
ユーラシア大陸の東の端に位置する海に浮かんだ東西、南北に連なる列島で、その地勢を反映して四季は変化に富んでいる。火山列島であるから、国土の大半は山で、その67%は森林で覆われている。山から海へと無数の川が、へちまの筋のような密度で流れ出しており、良質な水源が豊富にある。また、火山列島であるため、いたるところに温泉が湧き出している。
千数百年にわたって、ひとつの国であり続けた文化的蓄積も膨大である。古そうに見えるフランスも、ブルボン王朝をその始まりと数えるなら、安土桃山時代の頃からの歴史ということになり、日本と比べると若い国である。
現代美術家の杉本博司は「未来素材は古材である」と語り、石や木の古材、たとえば天平時代の寺院の礎石とおぼしき石や、由緒ある神社や蔵の遺構としての木片、使用されなくなった水車の廃材などを収集・保管し、新たな建築素材として活用する「新素材研究所」を立ち上げ、活動領域を建築方面へと広げている。その着想は、空間を構成する素材の希少性や価値を、歴史や時間の堆積の中に見出す姿勢から生まれている。価値を生み出す背景の作り方として示唆に富む事例である。世界の人々に「欲しい」と言わせる価値の作り方については、その最前線で活動している現代美術家に学ぶところは大きいかもしれない。
食については、季節ごとにその地に産するものを、旬を大事に考えて調理する文化が、料亭やレストランのみならず一般の家庭料理の中にも受け継がれており、味付けもカツオや昆布の出汁、つまり「うまみ」という独特の風味を基調として工夫されてきた。今日、西洋のガストロノミーに対峙する味覚世界として世界中の感度のいい料理人たちはこぞって「うまみ」に注目している。
まさに可能性に満ちた、膨大な観光資源であるが、現在に至るまで国を成り立たせる資源として本気で考えられたことはなかった。一部の例外を除いて、日本国内の人々が「生産」にいそしんだ心身の疲れを癒し、宴会で羽を伸ばすための逸楽や歓楽を提供する産業として、温泉街や観光旅館がそこそこに栄えたにすぎなかった。そのような観光を決して否定するつもりはないが、そういうものとは発想の異なる観光というものがある。「気候、風土、文化、食」を基軸に、未来の日本列島において新次元の観光が開花しようとしているのである。
第4章 『低空飛行』からの展望
039
工業化時代における「和」
日本という国が世界の舞台にデビューして、約150年が過ぎたが、日本人は富国の資源として観光を正視したことはなかった。
明治維新においては、合理性に立脚した西洋の科学技術と産業思想を目の当たりにした驚愕と焦りがまずあった。したがって自国の文化を放擲して、徹底的に西洋化に舵を切る方針が生まれた。21世紀という遠い未来の文脈を見据えて、日本固有の文化を資源ととらえる余裕などなく、欧米列強に追いつくべく殖産興業と富国強兵に勤しんだわけである。うかうかしていると、欧米列強に組み敷かれてしまいかねない危機感の中ではこれは仕方なかった。日清戦争に勝利し、当時の日本の国家予算の三倍もの賠償金を清国から得たことによって、日本は多数の才能を欧米へ留学させ、結果として短期間のうちに近代を身にまとうことができたのである。
しかし、どうにか日本が国としての体裁を保ったように見えた時には、はやる勢いを抑えきれず、軍国主義の台頭を許し、植民地経営のためにアジア進出を図るという過ちを犯し、結果として日中戦争、そして太平洋戦争へと戦火を拡大し、米国に蹂躙されて国土は焼け野原になってしまった。
焦土と化した戦後復興は厳しい道のりだったが、懸命に工業立国へと舵を切り、資本主義が隆盛する世界の環境下で日本は活路を見出した。製造というハードウエアに、エレクトロニクスを組み合わせることで、小型で性能の良い製品を大量生産するという工業化モデルが、生真面目な日本人気質にも合致して、日本は高度成長へと突き進んだ。したがって当時の列島の運用ヴィジョンは「国土の工場化」であった。石油や鉄鉱石などの原料を輸入し、クルマや船舶、半導体やテレビ、白物家電を作る産業へと、国を挙げてシフトしたのである。海辺は港湾施設や石油化学コンビナートで覆われ、都市に人口を集め、都市間は高速鉄道・高速道路、そして航空路線で結ばれた。地方は道路や鉄道が敷かれるのを待ち望み、政治はその希望を叶えるために働いた。こうして日本列島は「ファクトリー」へと改造されていったのである。
それでは、日本の文化はどこへ行ったのだろうか。
文化というものは、いかなる状況でも、その種火を絶やすまいとしてこれを守る人々によって、持続され命脈を保つものである。したがって、工業化ヴィジョンを強力に進める環境下においては、表立った動きはなかったけれども、目に見えないところで、地下水脈がそれなりに豊かに水をたたえるように、地道に受け継がれてきた。旅館や料亭など、もてなしの価値に評価があつまる領域において、空間の冴えや季節のしつらい、花や庭、茶の湯や書といった伝統の美や技芸が、ひそやかに受け継がれてきた。日本の美意識や感受性は、目立たないけれども強靭に、これらの営みによって命脈を保ってきたと考えられるし、これらを大切に感じる日本人たちの誇りや尊厳も、決して失われることはなかった。
一方で、産業は、国同士の通商によって活性化するものであるから、国と国、会社と会社の国際的な交流が必要になるのであるが、そういう局面においてはそれぞれの国の「文化」が、もてなしの具として利用される。戦後日本においては、文化をハンドリングするのは、工業の手であり政治の手であった。したがって、その扱い方は端的に言って無骨で、短絡的で、乱暴であった。
「フジヤマ、ゲイシャ」とは、日本人自身による日本紹介の浅薄さを揶揄する言葉であるが、法被を着て、提灯をぶら下げ、和太鼓を激しく打ちならすパフォーマンスを繰り広げつつ、寿司や天ぷらを食べさせ、折り紙を披露するとか、緋毛氈を敷いて赤い和傘をさしかけ、その下で抹茶を供するなど……。
いずれも和の伝統に立脚したものであるが、類型の羅列には感受するべき奥行きがない。富士山はあらためて見直しても立派な日本のシンボルであるし、芸者も素晴らしい民衆文化であり、寿司も日本が誇る食の華である。しかし「フジヤマ・ゲイシャ・スシ・オリガミ……」と連なると、やや印象が変わってくる。個別文化の典型を連ねて、エキゾチシズムで異国の人々の目を引こうとするのは、自らの文化のたたき売りのようなものである。これは、たたき売りをする側も承知のことだと思うが、ポスト工業社会に移行しつつある世界の中では、そろそろこの愚行のマイナス面に気付かなくてはならない。
日本文化は世界のいずれの文化と比較しても、実に独特であり、その本質は簡単には理解されない。理解に導くには少し時間がかかる。しかし、それでいいのである。最初に「ワオ!」と驚かせるのではなく、少し時間が経ったのちにやってくる「分かる衝撃」こそ、より深く強い興味を喚起する引き金なのだ。
情報過多と言われる今日、人々は何に対しても、「知ってる、知ってる」という。英語で言うと「I know! I know!」。ウイルスについても、ヨガについても、ガラパゴス諸島についても……。なぜか「知ってる」と二回いう。しかし何をどれだけ知っているのか。情報の断片に触れただけで知っているつもりになっているように見える。だから今日、効果的なコミュニケーションは、情報を与えることではなく、「いかに知らないかを分からせる」ことである。既知の領域から未知の領域に対象を引き出すこと。これができれば人々の興味は自ずと起動してくるのである。
政治も経済も、考えられる限りの知恵を絞って、この島国の趨勢を切り盛りしてきたことは、それなりに納得がいく。しかしながら、そろそろ、僕らは未来の日本を運営するためのリアルな資源を視野に捉えていかなくてはならない。
第4章 『低空飛行』からの展望
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「JAPAN HOUSE」の経験から
僕は2015年から2019年まで、外務省「JAPAN HOUSE」プロジェクトに総合プロデューサーとして関わった。これは、世界の人々に日本への興味と共感を持ってもらうべく、サンパウロ、ロスアンジェルス、ロンドンの三都市に設けられた、日本の文化情報の発信拠点である。準備期間を経て各拠点は、2017年から18年にかけて次々とオープンした。それぞれ、隈研吾、名和晃平、片山正通が考え抜いた会場設計を手がけ、「日本を知る衝撃を世界へ」という考え方を基軸に活動が展開されている。企画・構想の原則として、類型的な日本紹介は排し、物販、展覧会、食、ライブラリー、パフォーマンスなどのスペースを吟味して設け、ゆるいお国自慢や、安易なジャパネスクを慎重に避けた運営方針を展開している。
JAPAN HOUSE LONDON
物販スペースには、売れ筋の商品ではなく、見せたい水準の工芸品やハイテク製品を置き、高解像度の映像を相応しい場所に配し、その用い方などを伝えている。例えば、茶筒から茶葉を茶箕ですくって急須に入れ、ポットでお湯を注ぐ。これを順番に湯呑みに注いで茶托に載せ、それを盆に載せて運んで、供する。これらごく普通の一連の所作は、異国の人々にとっては実に新鮮であり、これを見て初めて、茶筒、急須、茶箕、茶葉、湯呑み、茶托、盆といった製品への興味が起動するのである。また、大根おろし、鬼おろし、生姜おろし、山葵おろし……といった「おろし器具一式」を商品として並べるのみならず、それらを実際におろす所作を動画で見せることで、これらの器具が輝いて見えるのである。
また、工芸品の制作風景を映像で様々に編集してモニターに映し、職人たちの真剣な表情や態度、そして高度な技巧を目の前に展観することによって、工芸に込められてきた精神が理解され、当初は異様に思われていた陶磁器の価格に理解と興味が生まれてくるのである。
これらの経験からの直感であるが、おそらく世界の人々の9割以上は、生まれてこの方、日本のことなど本気で考えたことがないのではないか。もちろん、寿司、アニメ、折り紙については「知ってる、知ってる」と考えていても、である。こういう人々に「いかに日本を知らなかったか」に気づいてもらうことによって、実に衝撃的な「日本への興味」が喚起できるのだ。なぜなら日本はそれほどに世界の他の文化と「違う」からである。「グローバル/ローカル」が価値を持つ今日の世界文脈において、この潜在力は実に巨大なものである。
実際、JAPAN HOUSEの来場者数は、予想を遥かに上回って推移し続け、サンパウロでは文化発信拠点として既に圧倒的な存在感を示し、ロンドンも、高級品を販売するショップや魅力的な展覧会を催すギャラリーとして、なくてはならない存在へと成長している。
現在はクリエイティブ・アドザイザーとして状況を見守っているが、年間2〜3本の巡回展が、日本から各施設に送り出され、またそれぞれの施設のキュレイターが独自の視点で日本研究を行い、展覧会やイベントを企画するなど、その脈動はオープン当初よりもむしろ生き生きとしている。この経験を通して、僕は日本の「未来資源」としての可能性に、はっきりと目覚めることができたのである。
第4章 『低空飛行』からの展望
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「低空飛行」異次元の観光へ
遊動の21世紀中葉に向けて、日本にとっての課題は、列島の魅力を損なうことなく引き出し、蓄えられてきた文化や伝統を、懐古趣味に陥らないように、未来感覚で運用していくことである。これは実に心躍る課題ではないか。
その具体例として、僕は「ホテル」に注目している。ここで言うホテルとは、移動の拠点としてひと夜を過す、あるいは華やかな催事を開く空間ではなく、むしろ「環境や風土に潜在する価値を、施設や建築を通して顕在化させる装置」を意味している。そこにある絶景を、サービスに供するためにかすめとるのではない。もしホテルがなかったなら、その土地の風光も食も文化も明確には認識できないような、その地に潜在する魅力を可視化するべく周到に構想された、美意識と知恵の結晶である。したがって、そこに滞在すること自体が主目的となる、そんなホテルが、日本のしかるべき場所に、静かに育っていく情景を想像していただきたい。
建築は、造形や個性を競って自然の中に屹立するものではなく、あるがままの風光を気持よく呼び込む工夫が随所に感じられるようなものが望ましい。その様相は、津々浦々の風土のバリエーションと同じだけあるはずだ。
そういうことを胸に、僕はここ三年ほど毎月、日本の津々浦々を歩き、新次元の観光に価値を提供できそうな場所を訪ねて、写真や映像を自分で撮影し、テキストを書いて編集し、その記録をwebsite『低空飛行――High Resolution Tour』として紹介し続けてきた。これは日本の観光に関するリサーチであり基礎研究のようなものでもある。
日本を歩き回って思うことは、やはり自然の相貌の多様性である。一つとして同じ海はなく、一つとして同じ山はない。日本列島は「半島」や「山」、「湖」という果実がたわわに実っている樹木のような存在である。本州は幹で、九州、四国、北海道はたくましい枝である。そこに実っているいずれの半島も山も湖も、本当に一つとして同じものはない。雪を抱いて厳しくそそり立つもの、深い森や水源を抱くもの、霧に包まれた湿原、澄みわたった波が打ち寄せる砂浜、岩の露出が絶景をなすもの、サンゴ礁が幾重にも取り巻くもの……。島もまた同じである。瀬戸内海という内海は、地域文化を繋ぐ媒体のような水域であるが、そこには七百を超える島々が点在している。それらは大きさも、暮らしも、農産物も、海産物も、潮や風も、人々の想像を遥かに超えて多様なのである。そのそれぞれの環境に、個別の豊かさと魅力が潜んでいる。
僕は資本家でも実業家でもない。したがって具体的なプロジェクトに資本を投じて収益をあげていく事業に手を染めるつもりはない。デザイナーとしての仕事の醍醐味は、資本や事業の拡大ではなく、仮想・構想における創造性である。その質的成果に最大の興味がある。投資家が資本を差し出すより前に、実業家が具体的な構想をまとめ切る前に、その土地や文化が生み出す価値の本質や潜在力を感知し、それを具体的なアイデアとして形にし、提示していくのが役割であり喜びなのである。
同時に、美意識や価値の差異の表現や差配において、危険や誤りを察知することも仕事の一環である。かつて危険な新興宗教団体が立てこもる「サティアン」と呼ばれた施設への立ち入り捜査が行われた際に、先頭に「カナリアの入った鳥籠」がかかげられたことがあった。これは毒ガスの発生に対して、鳥たちが人よりも数段敏感にじたばたと反応するからであると説明されていた。この記事に触れたときに自分は、ああ、これはデザイナーとしての自分のポジションや役割に近いかもしれないと思った記憶がある。美や繊細な価値を差配する事業には、緻密・繊細なセンサーが不可欠である。事業家たちは得てして、初めて骨董に手を出す素人と同様に、自分の目の暗さに気づかず、足を踏み外すことが少なくない。骨董品なら個人の散財で済むが、ホテルの規模だったらどうだろうか。従業員の命運はもとより、関連する周辺地域の印象や価値評価にも影響をもたらしかねない。ポスト工業化社会には、それなりの産業ノウハウが必要なのである。しっかり目の利く人々を組織し、その土地や文化を最適に編集し、束ねあげていくことが肝要で、そうすることによってのみ、異次元の観光をそこに呼び込むことができるのである。
そんな自分の仮想・構想の例をひとつご紹介しよう。それは『半島航空』と名付けたプロジェクトである。
これは新しい「エアライン構想」であり、着目したのは海でも陸でも離発着のできる「飛行艇」である。海上自衛隊の救難飛行艇に「US-2」という機種がある。この飛行機は、波高3メートルの大波でも着水できる世界トップクラスの性能を持っている。旅客利用だと当然、危険な着陸はしないが、静かな湖や内海だけではなく、太平洋や日本海にも余裕を持って降りられる性能を有している。旅客機として座席を据えると38人程度まで乗せられる。航続距離は4700km以上で、東京-那覇間が約1600kmであることを考えると実に素晴らしい性能である。巡航速度は480km/h以上であるから新幹線の約二倍の速さで飛ぶ。
この機体を旅客機として用いて、日本列島の「半島」を次々と結ぶ空路を構想してみた。房総半島から牡鹿半島、襟裳岬を経由して根室半島までを往復する路線、あるいは様々な半島経由で列島を西回り/東回りなども考えた。半島ではないが、琵琶湖や瀬戸内海、有明海を結ぶ航路もあるかもしれない。
いずれにしても、水陸両用の飛行艇であるから、飛行場を作らなくても海が滑走路となる。これまでの都市間移動とは全く性質の異なる空路が自然に構想できるのである。
そしてもう一つ、現在のジェット旅客機は高度一万メートルの高さを飛ぶ。したがって雲が出ると、地表はほとんど見えない。しかし、飛行高度を千メートルくらい、つまりスカイツリーの1.5倍程度の高度を飛ぶと、地表の様子がつぶさに見える。プロペラ機の飛行艇は、低い高度を、雨を避けながらの「有視界飛行」を行うので、雲に入ってしまうことがない。そして日本列島は、実に変化に富んだ地形をしていて、この高度/速度で遊覧するにはうってつけなのである。もちろん、三千メートル級の山々も至る所にあるが、地面からの高度は保って飛ぶのである。
こういう構想を抱きつつ、実際にプロペラ機で、幾度も列島の上を飛んでみたが、これは筆舌に尽くしがたい体験であった。三陸のリアス式の海岸線には毎回、目が釘付けになる。松島は上空から見てもやはり、美しい。知床半島から流氷の海を眺めつつ阿寒湖の上を飛ぶと、白い雪に覆われた阿寒岳とカルデラ湖の荘厳な光景に思わず時を忘れる。ニセコの羊蹄山、列島の中央に鎮座する富士山、鹿児島南端の開聞岳など、なだらかな山裾を持つ美形の山々の姿にもあらためて惚れ惚れさせられる。
考えてみると、この高度の景観はまだ旅客サービスとしては提供されていない訳で、いわば、手付かずの日本列島の姿が、低空飛行の領域に丸ごと残されているのである。
ところで、東京から本州の最東端、岩手県の魹ヶ崎まで、新幹線と車でいくとどれくらいかかるかご存知だろうか。東京から盛岡まで「はやぶさ」で2時間半、そこから車に乗り換えて2時間強、つまり最速でも5時間。もし羽田空港から飛行艇で向かえば、1時間半もあれば着く。しかもリアス式海岸の絶景を堪能しつつである。
半島は、航海の時代にはアンテナとして文化や情報が飛び交う拠点であった。日本海を北前船が行き来していた時代には、日本海の半島は生き生きと活性化していたはずだ。今でも往時の面影をとどめる地域は少なくない。しかし、都市間の高速鉄道や都市間の航空路線が発達してからは寂れる一方で、現在では最もアクセスしにくい場所になり果ててしまった。
半島は、三方を海に囲まれ、素晴らしい自然に恵まれた環境である。例えば『半島航空』というプロジェクトを仮想・構想してみるだけで、そのような場所が、俄然色めいて感じられるのである。僕のホテル構想は、未発の可能性の靄に包まれた状態だが、意のある人々や資本の参入によって、あたかも霧が晴れるように颯爽と、その姿を現してくれるかもしれない。
第五章 移動という愉楽
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「衣・食・住・行」
香港のデザイナー、アラン・チャンと「衣・食・住」に次ぐ四番目の要素は何かと話していたとき、氏は「行」ではないかと言った。香港は狭いので、香港人はどこか別の場所に行くことを本能的に快楽だと思っているという話であった。自分がどう答えたかは定かではないので、「休」とか「創」とか、あまりかんばしい答えが出せなかったのだと思う。しかし「行」はなるほどと思った。香港人でなくても人は常に移動に憧れている。
あるインタビューで、一番幸せな時はいつかと聞かれ、海外に出るために空港に向かっている時、と答えたことがある。正直な気持であったが、これは僕に限ったことではないだろう。ヒトというものは基本的に好奇心が服を着て歩いているようなものであるから、旅はその欲求を満たしてくれる理想の状況であり、その序章である空港への移動は誰にとっても心躍る時間である。ロングフライトの機内は眠れないから苦手だという人もいるが、好きだという人も少なくない。食事の心配なく映画や読書に耽溺できる楽しみもあるし、仕事の文脈から自然に離脱できる点でかなりの解放感がある。なにより移動しているという実感が密やかな興奮を生み出している。
航空機の場合、もしも事故があった場合には致命的となる高速で移動しているわけであるから、無意識のうちに心の深層にストレスを溜めているかもしれない。しかし仮にそうであったとしても、移動には何かしら自分の生を躍動させる力がある。そんなふうに考えると「移動」そのものをもっと充実させる工夫をしてはどうかという思いがつのってくる。そこで少し「移動」すなわち「行」のデザインについて考えてみたい。
旅客機はこの40年ほどあまり変わっていない。かつてはコンコルドという美しく速い飛行機があった。これには一度だけ乗ったことがある。ロンドンでブッキングのトラブルがあり、「コンコルドはいかがですか? ニューヨークに5時間早く到着できて、夕食は向こうで食べられます」と言われて、僕は「イエス!」と思わず三回言った。
機内に乗り込む時には胸が高鳴った。まるで宇宙船に乗り込む高揚感とでも言おうか。機内は丸く、通路を挟んで2座席ずつの配置だが、日本の新幹線よりやや狭い。飛行中、窓に手を触れると熱い。やはりかなりの摩擦が大気と機体の間に起きているのだと実感される。客室係が揺れながらどぼどぼと注いでくれたワインは、ボルドーのグラン・クリュであったが、それよりも超音速機特有のオージー翼が生み出す独特の機体の傾きや乗り心地が新鮮だった。トイレに立った折、操縦席のドアが開いていて、操縦士たちが皆、後ろを向いて客と談笑している姿が見えた時はやや驚いた。確かに、当時から航空機は安定飛行に入るとほぼ自動操縦なのだろうが。
コンコルドはほどなくして姿を消した。安全性の問題もあったが、大西洋を、ごくわずかの金持ちだけを少し早く横断させるために、成層圏に打撃を与えつつ過剰な燃料を消費する航空機は、美しくとも存続することを許されなかったのだ。それは仕方のないことかもしれない。
今後、旅客機の旅はどうなっていくのだろう。機体については、今後しばらく画期的な変化はないかもしれない。機内で自由に通信できるようになることは、世の中から隔絶された独自の時間という、空の上の特殊性が色あせてくるだろう。エンジン音を打ち消すノイズキャンセラーの登場で、騒音からは逃れられてきている。ただ、映画は今日、どこでも自由に視聴できるので、これから訪れる地域の情報が充実した映像コンテンツとして整理されていると便利かもしれない。食の充実が売り物の機内サービスであるが、僕が思い描くのは「ノーサービスクラス」である。事前に「空港デリ」で、出発から到着までの料理を自分で購入し、好きなタイミングで食べる、というようなやり方も出てくるかもしれない。温かい食べ物や冷たい飲み物をどうするかという問題はあるが、セルフサービスを積極的に導入することで、安価なフライトが実現するなら、若者や節約家はこぞってこちらを利用するだろう。食品のパッケージには、環境負荷の低い素材が、さらに工夫されて活用されるようになるだろう。案外、空の旅のための、超合理的な食品パッケージが、食品の保存、運搬、そして使い心地や捨て心地をリードしていくことになるかもしれない。
さて、小型のプロペラ機についてはどうだろう。日本では徐々に注目が高まっていくだろうと僕は感じている。その潜在性に気づいたのは12年ほど前、瀬戸内国際芸術祭の最初のポスターの撮影の折に、四人乗りのセスナで瀬戸内海上空を飛んだ時であった。高松空港から飛び立ち、小豆島の上空を旋回し、直島、男木島、女木島の上空を飛行しながら自由に撮影のポイントを探した。この時、海に点在する島々の姿がとても神々しく感じられ、まるで国づくり神話を天上から眺めているような気分になった。また行き交う船とその引き波の軌跡が目に鮮やかでひときわ美しく見えた。海や山から見る景色もいいが、千メートル以下の低高度から眺める景色は格別である。通常の旅客機の飛行高度は約一万メートルで、この高さだと晴れていないと地表は見えないし、見えていても遥か遠くであるから微妙に現実感がない。低空飛行は雨雲を避けて飛び、地表をつぶさに眺められるのである。
SKY TREK
この経験を経たとある夏の日、たまたま郷里にいた僕は、母親の誕生日にセスナの遊覧飛行を提案した。母親はやや渋ったが、それを隣で聞いていた祖母の目が一瞬輝いたせいもあり、三世代搭乗の遊覧飛行が実現した。岡山の岡南飛行場発着の一時間弱の飛行であったが、料金もリーズナブルで、内容もとても充実していた。瀬戸内海の島々はもちろん、自分たちの住んでいる街や卒業した学校などが模型のように見える。ただの海山ではなく、よく見知った場所を上空から俯瞰するのは痛快である。自分の家の上空は二回、旋回してもらったが、生まれ育った地域の道や川、後楽園や岡山城など、空から眺める故郷はせつなくいとしい。九○歳を超えていた祖母は飛行そのものが初めてであったが、酔いもせず景色を堪能していた。
小さな体験だったが小型のプロペラ機での飛行は、コンコルドよりも遥かに印象深いものであった。これをきっかけに、僕はその可能性に惹かれ続けている。今はサービスが行われていないが、SKY TREKという小型プロペラ機の移動サービスが始まったときには早速会員となり、北海道や鹿児島などへの移動に利用した。東京は残念ながら、小型プロペラ機が発着できる飛行場がなく、都内のヘリポートから近隣の空港へ、ヘリコプターで移動してからの利用となったが、乗り換えは思いのほかスムーズだった。日本列島を低高度の上空から眺め続けることによって、理想的なジオパークとでもいうべき日本列島の隆起感や海岸線の肌触りを掴めるように感じていた。
すでに前章で、「半島航空」の構想については触れた。「半島航空」は妄想ではなく、僕は本気でプロペラ式の水陸両用機の活用について考え続けている。第一に、水上で離着陸ができれば空港建設の必要がない。それに外海と内海、そして湖といった水辺の景勝地を連結できるので、日本の地勢を最大限に生かすことができる。さらに低高度の上空から眺めるめくるめくばかりの列島の素晴らしさもあげておきたい。
水陸両用機はまさに日本でこそ活用すべき移動ツールである。海上自衛隊が救難飛行艇として利用している「US-2」という飛行艇は、離発着の安定性においてまれに見る優れた飛行艇で、3メートルの大波でも離発着が可能である。旅客機にすると37座席になるそうだ。離発着時の速度は100km/hとゆるやかで、使用する海域はわずか150m。沿岸部には漁業権が張り巡らされている日本の海だが、これなら漁船の航行と変わらない環境負荷の範囲ではないかと思う。ぜひ周辺の法律の整備や規制緩和を国にリードしていただきたいと思うのだが、いかがだろうか。おそらくは採算性の問題が一番大きなハードルだと想像されるが、国土交通省や観光庁が、民間の意欲ある企業と一緒に、日本の沿岸部を「未来資源」として見立て直した瞬間に、このハードルもクリアされるだろう。
ドローンが移動手段に加わり、ヘリの利用、小型ジェット機の利用もじわじわと増えていくはずであるが、すでにある技術をサービスとしていかに成熟させていくかが大事なように思われる。
僕は自動車の運転免許を持っていない。したがって、ドライバーの立場からクルマを語ることはできない。しかし、自動運転を論じるならこの立場はむしろ利用価値がある。そして本当に自動運転社会が実現したなら、その時こそ免許を取得しようかと密やかに思っている。
自動運転は合理性からいうと理想的な移動手段である。かねてより僕はクルマという移動手段はかなり乱暴なものだと感じていた。白線を越えてはいけないというルールだけで、間違いを起こしやすい人間が、道路という狭い平面上を高速ですれ違いながら移動している。対向車のドライバーが過ちを犯さないという保証はどこにもない。自動運転はその安全性が心配されているようだが、事故の発生率をいうなら機械の判断の方がヒトよりずっと正確で事故も減ると言われている。むしろ生身の人間が運転するクルマが高速ですれ違っていた状況こそ、危険を野放しにした状態だったと感じる時代が必ず来るだろう。ただ、ヒトは、ある確率で確実に交通事故が起き続けていても、クルマの利便性や移動の快楽を優先する生き物なのである。この点は記憶しておくべきだろう。行きたいところに主体的に移動できる利便性はそれほどの魅力なのである。
自動運転は、クルマという概念や道路という概念、あるいは街や都市というものの考え方を根本から変えてしまうかもしれない。街を碁盤の目のように区画し、交差点に信号を設けたり、低速道と高速道を分けたりという仕組みは、判断力や操縦能力に限界を持つ「ヒト」が運転することを前提に考えられたものである。もしもほとんどぶつかることなく、最も合理的な道筋を選定して移動するAI制御の自動運転車を前提にするなら、都市や道路の作り方は全く違うものになるはずだ。信号機はおそらくなくなる。水中を泳ぐ魚群がぶつかることなく超スムーズに移動するように、自動運転車の群は信じられないほどスレスレを、事故なく敏捷に行き交うのである。
クルマが目の前に無人で登場するサービスが実現した場合、重要になるのは「清潔さ」ではないかと僕は思っている。ホテルに泊まることができるのは、ベッドルームやバスルームが掃除され、シーツが取り替えられているからである。ビジネスホテルなどのトイレは、清掃済みの封帯が蓋に配されていたりするが、これは案外重要なサインである。
クルマの外観は利用者たちの好みやトレンドによって移ろうだろうが、内部の座席はひとまず航空機の座席に近づくはずだ。一人乗りでも四人乗りでも、リクライニングの自在性や、出し入れできる簡易テーブルなど、求められる装備や機能の方向は航空機のシートに求められるものに似てくるからだ。ただし、接客係不在のサービスの最悪のトラブルは、汚れたクルマに遭遇してしまうことである。これはおそらくクルマの設計にも、あるいはそれを清掃管理するシステムにも、少なからず影響してくるように思う。正確さや安全性はAIが管理する限り向上する。もちろん、ヒトは運転から解放されるわけであるから、飲酒も読書も睡眠も自由にできるようになる。
ただし、ドライブではなくモバイルとなるクルマの移動は、一方ではかなり味気ないものにもなるだろう。クルマを運転する喜びは、目的地への移動というのは口実で、実のところは荒ぶるエンジンを備えたマシンを、荒馬を乗りこなすように制御する快楽ではなかったかと想像するのである。移動を目的とするなら運転は単なる労働であるが、ドライブの本質は他に替えがたい身体機能の拡張感と陶酔感かもしれない。運転免許のない自分ですらそこは理解できる気がする。だからもしドライブがモバイルに置き換わってしまった時、ヒトにクルマを運転する自由が残されているなら、僕はあらためて免許の取得に挑戦してみたい。もはや老境に達しているだろうが、許されるなら、美しいスポーツカーで、気持のいい欧州の田園風景などを切り裂くように、颯爽とぶっ飛ばしてみたいと思うのである。
クルマの歴史的変遷を表した概念図
日本の新幹線から「食堂車」がなくなってしまったのは実に残念だ。出張帰りに、仕事仲間と食堂車で酒など飲みながら語らうひと時には、不思議な充実感があった。食堂車の料理がことさら美味しかったわけではない。おそらくは同じ景色や料理を味わいつつ移動しているという連帯感のようなものが楽しさの背景にあったのだろう。最近は多様なサービスを満載した特別仕立ての列車を走らせている鉄道会社もあるが、この試みは列車の旅の重要な部分と危険な部分の双方に触れている。つまり、列車の旅の愉楽の潜在性と、過剰な豪遊がもたらす社会モラルの失墜という二つの側面に関係している。
遭遇すると必ず見てしまうテレビ番組に『世界の車窓から』というのがある。世界各地の鉄道の旅を淡々と取材している。速度やゴージャスさを競うのではなく、車窓風景や移動する人々の風情から、その鉄道が走る土地のお国柄がしっかりと滲み出ていて思わず引き込まれてしまう。世界は富の格差で争いや摩擦が絶えないが、人の幸せを左右するのは富の多寡ではなく、ゆとりと誇りの頃合いではないかと思う。それが如実にわかるのが、その国をゆく列車なのである。
日本は鉄道がくまなく行き渡り、車窓風景も豊かである。かつての田園風景や古民家が近代の殺風景な住宅に置き換わっていく状況を嘆く人も多いが、これは明治に起こった西洋文明と日本文化の衝突の余波がまだ続いているからだと僕は思っている。百年や二百年では到底しずまらない混濁と混沌の時代を僕たちは生きているのだ。古民家の集落が美しい景観を生んでいたことは間違いないが、今日僕らは細長いアヒルのような顔をした時速三百キロで走る新幹線に乗って、日本列島を移動している。古民家はすべてそのままであり続けるわけにはいかなかった。日本の敗戦の凄まじい焼け跡から立ち上がり、強引に工業化にシフトして、今という豊かさを曲がりなりにも築いてきたわけである。かつての木造家屋やその連なりの美しさ、そして水田の景観の美しさは身に染みてわかっている。経済成長優先によって傷ついてしまった景色や、コンクリートによって汚れてしまった国土についても深く自覚している。したがって未来に向かって、この混濁を少しずつでも「澄まして」いければと思っている。慎ましい家に暮らし、傾斜の多い国土の中で棚田を実直に耕し、自然に敬意を払いつつ日本をなしてきた人々は、暮らし方は変わっても、今も脈々とこの国に生きてその美意識の命脈をつないでいるはずであるから。
「駅弁」はこの国のもてなしと誇りの賜物の一つである。自然の恵みを堪能する知恵の塊である駅弁を無心に食べながら、車窓の風景を楽しみ、列車に揺られて移動する愉楽は、誰でも手に入れられる幸福の一つである。そこに未来への希望の光を感じてみたい。
北海道の鉄道が赤字であると聞くが、逆に僕はそこに大きな可能性を感じてしまう。素晴らしい手つかずの自然や、田園・牧場をはじめとするヒトの営みが景色をなし、海山の幸の豊かな土地の鉄道に、旅客が誘致できないはずはないからだ。寒いと言っても北海道より冬が厳しい国はたくさんある。雪が人を隔てるというが、雪こそ絶景を生み出す魔法のような資源ではないか。確かに、そこで暮らす人々が利用するだけの鉄道であるなら、炭鉱の消滅や少子高齢化による過疎化が原因で人口が減れば鉄道の収益も減っていくだろう。しかしながら今、世界の産業は、外からその土地を訪れる人々によって新しい局面を迎えようとしているのである。あらゆる意味において豊かな観光資源に恵まれている北海道ならば、この地を鉄道で行く愉楽を味わいたいと思う人々は世界中にいるはずだ。
北海道の風土や食の豊かさを体現するホテルを、出張や観光のために一夜を過ごすのではなく、そこに滞在することが最終目的となるような建築やサービスとして、地道な計画のもとにまずは構想していけばいい。
釧路湿原の手つかずの自然と鏡面のような川面をカヌーで味わう楽しみは格別である。知床半島に漂着する流氷の上を歩いてみる経験は、ここでしか提供できない貴重なものだ。根室半島の汽水湖である風蓮湖の静けさも、根室漁港に揚がる花咲蟹の風味も、それを増幅してくれる装置の誕生を待ち望んでいるように見える。ニセコ町や倶知安町は、その稀有な雪質が海外のスキー愛好家に知られ始め、外国資本がこぞってここにホテルを作り始めた。しかし、そのすぐ北には世界に誇るべき余市のウイスキー蒸溜所があり、その近傍に豊かな海の幸を供する漁港があるにもかかわらず、これらを統合連携する施設は存在しない。「鵡川のししゃもでございます」と、東京の料亭ではもったいをつけて差し出されるが、同じようにししゃもを供する料理店は鵡川にはない。ウニも、イクラも、カニも、ホタテも、シャケも、ホッケも「産地」と呼ばれるだけではなく「王国」になるべきではないか。それらが皆「ウニの王国」「カニの王国」「ホタテの王国」になったとき、北海道の鉄道は、それらを風土とともに堪能しようとする人々であふれるように思うが、いかがだろうか。
鉄道車両はことさらラグジュアリーを気取るより、素朴で篤実に設計されている方が気持がいい。かつてバンコクからチェンマイへ「イースタン&オリエンタル・エキスプレス」という列車で旅をしたことがある。室内はヨーロッパ風の高級調度で設えられており、食堂車のテーブルには白いテーブルクロスがぴしりとかけられていた。供される料理もワインもまずまずなのだが、料理を食べている最中に超ノロノロ運転で人々が暮らす街の軒下近くを通過する際など、その距離があまりにも近づきすぎて、こちらの贅沢が不遜きわまりないものに思われて冷や汗をかいた。この列車のラグジュアリーは、かつての植民地時代の価値観で生み出されたものであろうが、あまりに選民的・貴族的なポジションは乗客にとって心地のいいものではない。これは日本の国土を走る列車も注意しなくてはならない点である。
したがって、濃紺やこげ茶に地味に塗装され、堅牢な造作でありながら客席内の座席もテーブルもそこそこに座り心地が良く、二人がけのシートを回転させると向かい合わせになる従来の鉄道車両は、気が利いていると思う。テーブルさえ絶妙な位置にぴしりと出し入れできれば、機能的には事足りる。窓は大きく視界が開く工夫がほしい。あとは駅弁や、それにふさわしい水準の飲み物が乗車前後に調達できるようになっていれば乗客は幸せである。
強いて言えば、客が増えてきたならば、画期的な食堂車両を考案して欲しい。鉄道の旅がすばらしく心地よい地域は幸福である。北海道に限らず、日本中の地域はそうなる潜在力にあふれているのであるが。
リニアモーターカーにも期待したいところだが、リモート会議全盛の時代に、暗いトンネルの中を真っ直ぐ走って東京・大阪間の移動時間を1時間ほど縮めるよりは、旅の幸せがどこにあるかを真摯に考えた方が未来は豊かになるのではないかとも思う。東京・大阪間の移動で言うなら日本海ルートか太平洋ルートかを選択できるようになることの方がよほど魅力的で、日本の国土にとっては影響の大きなことになりそうである。
日本はフェリーが発達している。クルマごと乗船できる船である。瀬戸大橋のようなハイテクによる大橋梁ができるまでは、フェリーは道路の一部と考えられていて、岡山県宇野と香川県高松を結ぶ本四連絡船は「宇高国道フェリー」「本四フェリー」等という名称であった。少しずつ改善が重ねられ、使い勝手も良かった。客室にこもらず、デッキに出て島々をわたる風に吹かれると爽快な気分になった。
1993年のことであるが、アマゾンの中流域のマナウスという街の岸辺で、僕は熱帯雨林の中にある「ジャングル・ロッジ」という宿泊施設に行くべく船を待っていた。中流域といえどもアマゾンの川幅は瀬戸内海くらいある。そこで使われる船は、日本の海を行き来するフェリー程度の大きさなのだと、やってきた船を見て思った。それにしても、瀬戸内でなじみのある船に似過ぎている。船内を観察して回るうち、操縦室のハンドル付近の、金属に鋳込まれた目盛りの表記が「前・後」となっていることを発見した。なんとアマゾン川を航行する客船は日本から運ばれた船であった。ブラジルは、日本からの移民が多く、農業をはじめとする多くの産業で成功を収めている日系人が多い国である。ブラジルは地球の反対側だが、確かに海はつながっている。そして日本のフェリーはその性能が評価され、アマゾンで活躍していたのだ。
この原稿を書いているのは2021年、隠岐諸島の島前、菱浦港付近のホテルの一室である。窓の向こうは日本海の内海で、時折フェリーが横切る。実に颯爽として見えるし乗り心地も良好である。デッキの手すりにつかまって、水平線や過ぎ去る島々をながめていると、ストレスがすーっと消えていくような気持になる。小笠原や南西諸島のような距離のある島への本土からの移動となると時間がかかるけれども、島伝いに浦々を行き来する連絡船だと、乗っている時間はさして長くはない。高速艇で船内に閉じ込められて少し早く移動するのもいいが、海の風を肌に感じつつゆったりと移動する心地よさはやはり格別である。この点はもっとはっきり意識されていいように思う。
Entô 客室から見た風景
また、日本の海は本当に多様で、隠岐諸島周辺の島々には砂浜は見当たらず、火成岩の隆起を想像させる岩肌の荒々しさが印象的である。こうした「海景」の個性は、間違いなく日本の観光資源であるが、いまひとつ注文を出すなら、船独特のエンジン音と振動に工夫が欲しい。瀬戸内を航行する客船旅館「GUNTU」は、電気によるモーターの駆動で動くのでとても静かである。電気によって動く静かなフェリーが、海に囲まれた列島の、ゆったりした移動を担うようになると、おそらくは世界中の物見高い人たちは稀有なる海景群を船で体験するために、この列島を訪れたくなるのではないかと思うのである。「GUNTU」は静かな瀬戸内海を航行するために船底をフラットに設計してあるらしいが、日本の津々浦々の風光や海景を堪能するための宿泊機能を持った船も、その乗り心地、泊まり心地を磨き上げていけば、新しい船の文化が開花していきそうである。
波の穏やかな瀬戸内海以外では、揺れが障害となって洋上での滞在は必ずしも快適ではないと思われるかもしれない。しかし解決の方法はあるはずだ。太平洋に浮かぶ絶海の群島、エクアドルのガラパゴス諸島を探訪する人々は、小型のクルーザーで宿泊しつつ巡遊する。なぜなら、厳格な環境保護の対策がとられているので、島への上陸は10人程度の単位で3時間以内、必ず生物学の学位を持つガイドの先導を伴うものというルールがある。したがって小型のクルーザーから、「パンガ」というさらに小型のゴムボートに乗り移って、桟橋などの人工物のない島に上陸するのである。
上陸した島々の話はさておき、この小型クルーザーの乗り心地について少しお話ししておきたい。要するに宿泊は全て洋上でということになる。島々をめぐるクルーズは最短でも3泊程度、見どころを一周するとなると一週間から十日ほどかかる。船は100人乗りもあると聞いたが、港に停泊しているクルーザーを見渡すと20〜16人乗り程度が主流である。僕が体験したのは小さい方のクルーザーである。それぞれ個室にトイレやシャワーがあるがとても狭い。シャワー室で立ったままシャンプーをしていると、揺れをことさらに強く感じて船酔いになりかける。デッキに出て水平線を眺めていると自然と船酔いは治まるのであるが。食事はシェフが乗り込んで作る料理をバイキングスタイルで各自テーブルに運んで食べる。きちんとスープから始まり、ワインも頼める。船で寝起きするリズムが繰り返されるうちに揺れは徐々に感じなくなる。
台風に時々襲われる日本列島であるが、そういう時期を避ければ、揺れの問題は船の大きさで緩和される。波の揺籃や海風が心地よく感じられる、大型のフェリーを選んで改造してみてはどうだろうか。船体はそのままで客室を徹底的にリノベーションし、狭いながらも快適な景色を堪能できる個室に切り替え、一週間・二週間・一ヶ月など、ゆっくりと日本列島の外海や内海を巡遊するツアーを、停泊地と連携して考えていく。エンジンはモーターに替える。時々は停泊地のホテルを利用するのも自由。搭載車は停泊地で出かけるための送迎車かレンタカーにするといい。訪問する先々で、異なる地域の異なる文化に触れられる。温泉は列島のいたるところに湧き出していて、その泉質や風情は千差万別である。かつての北前船の時代のような賑わいと繁栄を再び「半島」や「離島」にもたらすことができるような構想であるが、それは緻密に計画すれば実現できると思うのだ。今日、もはやどこででも働けるわけであるから、二週間ほどフェリーで旅をしながらオンとオフを混淆させてみようという旅客は少なからずいると思うのだがどうだろうか。
第五章 移動という愉楽
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瀬戸内デザイン会議
地域の風土や環境を力に変えるホテルの構想や、国際的な顧客の動向を丁寧に分析した計画のもとで「資源」を見据え、それを「価値」へと転換していけばいい。そういうヴィジョンを共有する事業主が、互いに連携・協力することが肝要であり、そうすることで相互の価値が掛け算のように飛躍するのである。ホテルは風土や文化を可視化あるいは価値化する事業であり、移動は点と点に血を通わせ、そのプロセスを活発な市場へと脈動させる事業である。同様のヴィジョンや展望を共有できる事業主たちが、信頼をもってアイコンタクトし協働できれば、次々と新次元の実りを体現することになるだろう。21世紀のデザインはそういう文脈で仕事をしたい。
そろそろ、意のある人、目の利く人、創造力のある人、エネルギーのある人、投資意欲のある人、書ける人、企める人、アドバイスできる人、拡散できる人などを集め、日本の風土や伝統を未来資源とする新しい産業とその可能性を、目に見える形にしてみたい、そしてこの方面にポジティブな影響力を生み出してみたい。そんな考えから『瀬戸内デザイン会議』と称する運動体が生まれた。世話人はこの構想について話し始めた、元せとうちホールディングス代表の神原勝成、石川文化振興財団理事長の石川康晴、そして僕である。
2021年の4月、これに賛同するメンバーが「GUNTU」に乗船し、船中プレ会議が開催された。メンバーは、ホテル経営者、料亭女将、美術館理事長、移動サービス系実業家、教育系実業家、日本美術ライター、訪日観光サイト代表、寺院住職、コンサルティング会社アドバイザー、菓子店経営者、投資家、雑誌発行人、地域経営家、アート系財団主宰者、陶芸家、デザイナーなどであった。
僕は岡山市の出身で、瀬戸内海は故郷のようなところであり、また瀬戸内国際芸術祭のアートディレクションも5回目を迎えることもあって、瀬戸内と縁を深めていた。国際芸術祭や直島、豊島などにできたアート施設を基軸として「SETOUCHI」は世界に知られるゾーンに成長しつつある。さらに瀬戸内海は四国、中国、九州、近畿を繋ぐ「インター・ローカル・メディア」でもあり、もはや一地域を超えた存在として「GLOBAL/LOCAL」を考えるにふさわしい概念であると考えて会議の名称とした。
2021年の10月に広島の宮島に再び全メンバーが集まり、第1回の会議を開催することが決まっている。メンバーが具体的な未来構想を披露し、率直な意見をぶつけ、見当違いの開発をせず、互いの事業が掛け合わされて大きな実りとなるように意思の疎通をはかることが目的である。日本は製造業で長く走ってきた国であり、基幹産業を担う企業は製造・品質の管理、材料の調達・在庫・出荷等の管理は緻密にできるが、価値を見極め、表現するための「目利き」というソフト管理が不得手である。その土地に合致した建築やそれを設計できる建築家の選定、インテリアの吟味や細部への気遣い、料理における美意識の共有や食材の調達、空間・調度・器類の選定、接客のポリシー、周囲の産業との連携などについては経験が少ないばかりでなく、そのことが得意ではないことにすら気づいていない。さらに、この領域に意欲ある経営者あるいは権限を持つ担当者が、得てして見当違いの美意識を発揮して、取り返しのつかない事態を招くことも少なくない。ここに集ったメンバーは、それぞれの領域で仕事に定評を持ち、世の中への影響力が生み出せるメンバーである。それぞれが連繋のとれたサッカーチームのように緻密なアイコンタクトをして、価値の掛け合わせ・連携を深め、観光の未来を明るい方向に進めるべく、活動したいと考えている。参加者の人数は、状況に応じてフレキシブルに変化していくだろうと思っている。
「瀬戸内」を「インター・ローカル・メディア」と定義づけて会議名として使用した経緯から明らかな通り、これは勿論、瀬戸内海に限った話ではない。ホテル・美術館・料亭・旅館・航空サービス・客船サービス・メディア・建築・デザイン・アートが、どんな連携や価値をこの列島の津々浦々に生み出していけるか。投資家や国や自治体、あるいは企業が、これらをどう運用してくれるか、まさにこれからの十年が正念場となるだろう。
『この旅館をどう立て直すか 瀬戸内デザイン会議−1 2021 宮島篇』(2022年4月13日発売)